その日、僕は魔法使いを見つけた。
銀色の髪に、紅い瞳。とんがり帽子に、黒のローブ。
その女の子は、誰もがひと目で魔法使いと分かる姿をしていた。
それは僕が1学期だけ通った栃木の県立高校を辞め、東京で暮らし始めてから半年ほど経った頃のことだった。その日、僕はいつものように予備校の授業をサボって午前中から秋葉原に遊びに来ていた。
JR総武線の黄色い帯の入った車体が駅のホームに到着すると、車内からは多くの乗客が降りた。始発の三鷹からずっと優先席の端に座って本を読んでいた僕は、ドアディスプレイに表示された『秋葉原』という表示を見て慌てて立ち上がり、彼らに続いて最後に電車を降りた。
僕は6番線のホームから階段を二つ下り、スマホのIC切符で電気街口の改札をくぐった。定期券外の駅のため、改札のディスプレイには超過料金の表示が出ていた。僕はそれを見ないふりをして駅前広場に続くコンコースに出た。
コンコースから見える10時過ぎの秋葉原の駅前広場は、穏やかな初秋の日差しで満ちていた。僕はそんな光景を横目に、広場に面した駅ビルの1階のカフェに入った。読みかけのいいところで駅に到着してしまったため、手には栞代わりに指を挟んだ文庫の小説が握られたままだった。
僕はレジでカフェラテを注文し、広場を見渡せる窓際の席に座った。カフェの店内には僕以外にもまばらながら客は入っていて、少し離れた壁際の席では、スーツ姿の男性がサンドイッチを片手にノートパソコンとにらめっこをしていた。それは平日の午前中の東京にとてもよくありふれた光景だった。僕は読みかけの小説のページを開いて、カフェラテを一口だけ飲んだ。
どれくらいそうしていただろう。ある時、僕はふと周囲が騒がしくなっていることに気付いた。ガヤガヤという雑音に意識が引き戻され、僕は本から顔を上げてガラス越しに外を見た。そして彼女を見つけたのだ。まるで本物の魔法使いのような姿をした、その不思議な女の子を。
僕はしばらくの間、ガラスの向こうを見つめたまま固まっていた。銀色の髪に、紅い瞳。とんがり帽子に、黒のローブ。彼女はまるでおとぎ話に出てくる魔法使いのような姿をしていた。遠くを見つめる目のピントを近くに戻すと、ガラスに映った僕の顔が見えた。僕はパチパチと何度も瞬きをした。その向こうに見える魔法使いの女の子も、こちら側に映る僕のポカンとした間抜け顔も、どちらもまるで現実の光景であるようには思えなかったからだ。
「ねー、なんだろーあれ。ほら、あの子、めっちゃ変な格好してない?」
「えー? あ、ほんとだー、魔女だ。なんのコスプレだろ、外人っぽいけど」
振り返ると、二人組の女学生が広場の方を指差して話していた。僕はまたガラスの向こうに目を向けた。その魔法使いのような女の子は、広場の中央にある時計塔の真下に一人で居た。カラーコーンのように大きなとんがり帽子のつばの隙間からは、見たこともないほど美しい銀色の髪が垂れていて、肩と背中を覆う真っ黒なローブの上でキラキラと輝いていた。その両目はまるでルビーのように鮮やかな紅色をしていて、遠目に見てもそれが明らかに分かるほどだった。
「あ、やば。もう授業始まっちゃう。てか始まってるし。あはは」
女学生たちは笑い合いながら席を立ち、そのまま何事も無かったかのように店を出ていった。そんな彼女たちの言葉は、僕の意識に渦巻いたある想像をパッと晴らした。
「あっ……そうか。コスプレか」
唐突に、僕はそう思った。
なぜだろう。その言葉を聞くまで、僕はそのごく当たり前の可能性を少しも思い当たらなかったのだ。僕はガラスを覗き込み、向こう側に目を凝らした。魔法使いのコスプレをしたその女の子は、キョロキョロと辺りを見回しながら、何かを探しているようだった。
「確かに、そうだよな……普段からあんな格好してる子、どこにも居ないよな」
駅舎に書かれた『秋葉原駅』という文字を見ながら、僕は誰に言うでもなくひとり呟いた。そうだ、ここは秋葉原なのだ。だから駅前に魔法使いのコスプレをした女の子が居ても、それは不思議なことではないのだ。なぜならここは——そういう場所なのだから。
僕は乗り出した身を収め、広場を見渡した。そこには彼女以外にも多くのコスプレ衣装を身につけた人たちが居た。猫耳にフリルのミニスカートを身につけたメイド姿の女性、燕尾服にモノクルをつけた背の高い執事風の男性、軍服や和装の人たちすらいる。彼らは皆、駅周辺に乱立したコンセプトカフェの客引きだった。
僕はふと、その中の一人の服装に見覚えがあることに気付いた。それは僕の知り合いがバイトをしている、とあるメイドカフェの制服だった。僕は小さく溜息を吐いた。大きく膨らんだ期待は一瞬のうちに萎んでいった。なんだ、やっぱりそうか——。
パタン——。僕は微かな——あるいは大きな——失望を打ち消すように本を閉じ、リュックにしまって席を立った。時計を見ると、そろそろいい時間だった。スマホを取り出して見ると、通知欄には新着メッセージが来ていた。僕はそのまま店を後にした。
駅ビルから広場に出ると、さっきよりも太陽は高く昇っていた。日差しも強くなっていた。僕はその眩しさに思わず手をかざした。最近は朝夕は少し肌寒くなったとはいえ、日中は夏の名残のような強い日差しが照りつけることも多い。今は、そんな夏と秋の境目のような季節だった。
僕は広場を通らず、そのまま中央通りに抜ける路地に向かった。僕の目的地は駅から少し歩いた場所にある。待ち合わせをしているわけではないが、昼前には着いておきたかった。僕は路地の入口でふと立ち止まった。見上げると、旭日章の付いた防犯カメラが向こうを向いていた。
僕は後ろを振り返った。魔法使いのコスプレをした女の子は、まだ時計塔の周りをウロウロしていた。さっきと変わって、彼女は道行く人たちに声を掛けて回っているようだった。やはり何かの店の客引きなのだろう。だがその格好があまりにも奇抜なせいか、彼女は誰からも相手をされずにいるようだった。ほとんど全員に素通りされ、たまに顔を向ける人たちも、ぎょっとしてすぐに離れていった。彼女は本物の魔法使いじゃない——そう思って前を向いた、その時だった。
——銀色の髪に、紅い瞳。とんがり帽子に、黒のローブ。
——その女の子は、誰もがひと目で魔法使いと分かる姿をしていた。
誰かの声が聞こえた。僕は路地に伸ばしかけた足をピタッと止めた。その声はどこからともなく聞こえた。不思議な声だった。男の声でもあるようで、女の声でもあるようだった。大人の声でもあるようで、子供の声でもあるようだった。そんな奇妙な声を聞いたのは初めてだった。
僕はハッとした。そうだ、これは僕の言葉じゃないか。それはついさっき、僕があの魔法使いの女の子を見つけた時に、心の中にフッと思い浮かんだフレーズだった。文章と呼ぶほどの長さでもないし、一言と言うほど短くもない。これといって上手い言葉遣いもなければ、比喩や言い換えもない。ただ僕が見たままの彼女の姿を言い表した、ごくありきたりな言い回しだった。
だけど、と僕は僕の言葉を留める。だけど、どうしてそんな言葉を選んだのだろう? 誰もがひと目で魔法使いと分かる姿? 僕は自分で言ったはずの、その言葉の真意が分からなかった。考えれば考えるほど、それはひどく奇妙なフレーズだった。本物の魔法使いなんて誰も見たことないはずなのに、どうしてそんなことが言えるんだろう?
「……ねえ、君さ、そこで何してるの?」
僕は路地の手前で踵を返し、広場の中心まで歩いていった。そしてベンチに座った彼女に声を掛けた。彼女は脚を閉じて手を膝の上に置き、肩を小さく丸めて俯いていた。近くで見ると、彼女がローブの下に着ているのは普通の服だった。白い襟付きのブラウスに、チェック柄のミニスカート。紺色のハイソックスに、靴は革のローファー、胸元にはちょうちょ結びのリボンを締めている。それだけ見れば、それはオシャレな学校の制服のようにも見えた。
「……?」
ピクッ。僕の声に気が付いたのか、その女の子は微かに体を揺らした。とんがり帽子のつばがとても大きいせいで、立ったままの僕には彼女の顔は窺えない。彼女はまさに恐る恐るといった感じで顔を上げた。その時、僕は初めて彼女と向き合った。
「それ、何かのアニメのキャラ? それとも、そういうお店の——」
僕は言葉を失くした。なぜなら、帽子の下から現れた彼女の素顔がすごく綺麗だったからだ。ドキッと、耳に聞こえるほど心臓が高鳴るのが分かった。彼女はとても可愛い女の子だった。
「客引きとか……じゃ、ないよね、きっと……」
遠くから見た時は小さな紅い点にしか見えなかった彼女の両目は、近くで見ると息を呑むほど鮮やかだった。左右共にくりっとした綺麗な二重瞼で、その瞳の丸さがはっきりと分かるほどぱっちりしていた。彼女の瞳は、まるでルビーのように真紅の輝きを放っていた。よく目を凝らして見なければ、その中心に僕と同じ色の黒い瞳孔があることにすら気が付かないほどに。
『目がキラキラしている』という慣用句があるけど、それはまさに彼女のためにあるような言葉だった。彼女の瞳は正午の日の光を反射させ、いくつもの白い煌めきをその中に宿していた。
だがその眩さとは対照的に、彼女の表情はひどく憂いを帯びていた。彼女は眉をひそめて口をすぼめ、悲しいような、怯えたような顔で僕を見上げていた。
「あの……僕、あそこから見てたんだけど、それって魔法使いのコスプレだよね?」
言って、僕は急に恥ずかしくなった。自分で口にしたその言葉が、ひどく的はずれなものであると理解したからだ。それはコスプレなどではなかった。彼女の銀色の髪も紅い瞳も、身につけている帽子もローブも、どれ一つとっても偽物はなかった。それらは全て、彼女のものだった。
「なんで……そんな格好してるの? 何かのイベントがあるの? 今日、ここで……」
言葉を継げば継ぐほど、声が上ずるのが分かった。一体、僕は何をやっているのだろう。声を掛けてみたはいいものの、それからのプランというものを考えていなかった。
「……?」
彼女は僕の問い掛けには返事をせず、ひどく怪訝そうな顔を浮かべた。当然の反応だった。彼女が何者であれ、広場のベンチに座っていたら、急に知らない人間に声を掛けられたのだから。
「あ、違うんです! ナンパとか変な勧誘とか、そういうんじゃなくて、僕はただ……」
「XX、XXX……?」
「え?」
「XXX、XXXX、XX……」
はじめ、何かを聞き間違えたのかと思った。だがそれは気のせいではなかった。彼女は僕の知らない言葉を喋っていた。明らかに日本語の発音ではなかった。そこで僕はハッと気が付いた。そうか、この子は外国人なのだ。だから日本語が喋れないのだ。そんなの当たり前じゃないか。
「あ、そうか。えーと……ウェアユーフロム? フーアーユー? ホワイ、ユー……?」
僕は学校で習った英語の知識を総動員して、彼女とコミュニケーションを図ろうとした。だが、この数年間それなりに頑張って覚えたはずの英語の語彙はそこで無惨にも尽きた。おかしい、学校に居た時は英語の成績はそれなりに良かったはずなのに。
「X、XXX、XXX……?」
彼女は両手を胸の前で組んで、何かを訴えるように言った。それが僕に対する返事だったのかは分からない。だが、そう言った彼女の語尾が少し上がっているように聞こえたので、彼女が僕に何かを尋ねているようだと分かった。よかった、怯えているわけではなさそうだ。僕は不安にざわめいた胸をホッと撫で下ろした。問題は、その内容が1ミリも分からなかったということだ。
「え、ちょっと待って。ウェイト、ウェイト。君、それ何語? ドゥユハブイングリッシュ?」
「XXX、XX、XXXX、XXXXX」
僕の下手くそな英語を気に留める様子もなく、彼女はそのまま自分の言葉を喋り続けた。聞いているうちに、僕はそれが英語とは全く違う、僕の知らない外国語であると気付いた。頑張って耳を傾け続けても、一つも聞き覚えのある音が見つからなかった。
「マジか……えっと、ちょっと落ち着いて。ステイ、ステイ」
僕は両手のひらを下に向け、『落ち着け』のジュスチャーをして彼女をなだめた。すると、彼女は少し前のめりになった体をそっとベンチの上に戻し、しゅんと口をつぐんでしまった。どうやら彼女の方でも、自分の言葉が通じないことを悟ったようだった。そんな彼女とは反対に、僕はホッとした。このまま何語か分からない言葉でまくしたてられても、どうしようもなかった。
「困ったな、ごめん、僕、君が何て言ってるか全然分かんないや」
僕は英語で頑張ることを諦め、日本語で彼女に話し掛けた。どうせ通じないのなら、せめて自分の気持ちがストレートに表現できるこっちの方がマシだ。僕は頭から爪先まで、彼女のことをしげしげと見回した。何も言わずにジロジロ見られているせいか、彼女はひどく気まずそうだった。状況が状況なら、お巡りさんを呼ばれてもおかしくはない。
「君、どこの国の人? 日本じゃないことは確かだけど……」
僕は一番の疑問をぶつけた。話す言葉や身につけている衣服を別にしても、その女の子の見た目は明らかに普通ではなかった。髪の色も珍しいし、目の色はもっと珍しい。僕はそんな姿をした人間を今まで一度も見たことがなかった。
帽子から垂れた銀色の髪の長さは、肩から背中に掛かるくらいのセミロングで、サイドはこめかみから胸にかけて広がり、その横から耳の先が少し見えていた。前髪は眉毛に掛かるくらいに膨らみ、全体として軽いパーマを掛けたようにふわふわと波打っていた。
彼女の銀色の髪と紅い瞳は、ひと目で本物と分かる輝きを持っていた。その髪は彼女が顔を動かすたびにキラキラと晴れた海のように煌めき、おでこの部分にはキューティクルの白い輪が掛かっていた。コスプレ用のウィッグじゃこうはならない。コスプレ好きの知り合いが居るせいで、僕は少しだけその手のグッズには詳しかったりするのだ。
銀色の髪、そして紅い瞳——そんな人間が暮らしている国なんて、この世界にあっただろうか? 僕は頭の中におぼろげな世界地図を思い浮かべてみたが、一つも見当がつかなかった。彼女の銀色は、色のくすんだ金髪とも全然違っていたし、紅色は動物の目のように鮮やかだった。それは文字通り、彼女が生まれ持った彼女の色であるようだった。
「あれ? それって……」
僕はふと、彼女が髪飾りをつけているのを見つけた。それは彼女の瞳と同じ色をした、小さな紅い花の髪飾りだった。女の子なのだから、髪飾りをつけているのはおかしくない。だがなぜか、僕はその花に奇妙な見覚えがあった。植物に詳しいわけでもないので、もちろん名前は分からない。僕はじっと首を伸ばして、その小さな紅い花を見つめた。
「XX、XXX……?」
僕がそうしていると、彼女は目線を上げてぽんぽんと前髪を探った。何かゴミが付いていると勘違いしたのかもしれない。やがて、彼女の手は紅い花の髪飾りに触れた。
「XX?」
ぱちっ。彼女は不思議そうに首を傾げ、ピンを外して髪飾りを手のひらに載せた。
「XXX……?」
それを見た彼女は、なぜかハッと驚いた表情を浮かべた。紅い両目をパチパチと瞬かせ、口をポカンと開けて固まっていた。自分でつけた髪飾りを見て、何を驚くことがあるのだろう——。僕がそんなことを考えていると、彼女はサッと僕を見上げた。そしてさっきよりもすごく恐る恐る、僕にその髪飾りを差し出した。
「あっ、いや、違うよ。そういう意味じゃなくて……」
僕は慌てて手を振った。おい、ナンパの次はカツアゲか。僕も僕だが、この子もこの子で察しが悪すぎる。これじゃ会話どころか、マトモに意思疎通すらできないぞ。
「XX……」
『戻せ』のジェスチャーを繰り返すと、ようやく彼女は髪飾りを持つ手を下ろした。
「あのさ、もしかして君……迷子なの?」
僕は思い切ってそう口に出してみた。ひと目見て、彼女がコンカフェの客引きでないことは分かった。荷物を何も持っていなかったからだ。チラシ、看板、無線のレシーバー。彼女はそういった実務的な客引き道具を、一つも身につけていなかった。
何より、彼女はとても幼い顔つきをしていた。背や体つきは僕と同年代にも見えるが、彼女が浮かべた不安そうな——もっと言うと無自覚な——表情は、紅い瞳の輝きのせいだけではなかった。僕はそんな彼女の純粋で子供っぽい眼差しに、強い同情を感じた。
「君さ、名前、何ていうの?」
「XXX?」
「な・ま・え。ユアネーム……って、英語で言っても意味ないんだろうけど」
「X・X・X?」
「な・ま・え。君の名前。ほら、あるだろ。アリスとか、ドロシーとか……」
僕は指差しジェスチャーを交えて尋ねた。外国人の名前なんてほとんど想像で物を言うしかないけど、それすら伝わるのかも怪しい。そういえば、人に向かって指を差すのって国によっては失礼なんじゃなかったっけ……と僕は自分の指の先をピタッと見つめた。
「XX、XX……」
僕の問い掛けをどう受け取ったのか、彼女は手のひらに載せた髪飾りと僕を、キョロキョロと交互に見比べながら、もごもごと口を動かして困っていた。
「僕の名前はトモヤ。みんなからはいつも『トモヤ』って呼ばれてる」
「X、XX?」
「ト・モ・ヤ。な・ま・え。僕の名前。ト・モ・ヤ、ト・モ・ヤ」
僕は自分を指差しながら、『トモヤ』という自分の名前を連呼した。どこにでもありふれた日本人の名前だけど、自分の名前をわざわざ大声で人に言うのは恥ずかしい。
何だかそれは——ひどく子供っぽく感じる。
「とぅ、もぅ、ゆぁ?」
僕が念仏のように何度も同じ言葉を唱えていると、彼女は自信なさげに僕の言い真似をした。彼女の発音は語尾が曲がったような、少し舌っ足らずな音をしていた。それは一般的な日本語の発音には程遠かったけど、僕の耳には確かに『トモヤ』と聞こえた。
「そう、トモヤ。僕はトモヤ。どういう意味かは知らないけど、とにかくトモヤ。ト・モ・ヤ、ト・モ・ヤ、ト・モ・ヤ……」
「とぅもぅゆぁ、とぅもぅや、とぅもや……」
もうどうにでもなれと思った。今まで人に名前を名乗った回数を足し合わせても、こんなに口にしたことはないだろう。恥ずかしさはすっかり消えていた。とにかく前に進まなくてはいけないという気持ちになった。その捨て身の精神が功を奏したのか、彼女は次第にそれが僕の名前であるということを理解し始めたようだった。
「ともぅや、ともゆぁ、とぅもや……」
「惜しい、もうちょっと。ト・モ・ヤ」
「ともや、ともや」
その女の子はまるで小さな子供のように僕の名前を呼んだ。曖昧だった発音は、次第にソリッドな音の形を描いていった。それは誰が聞いても分かる僕の名前だった。僕は彼女のような可愛らしい女の子に、自分の名前を呼んでもらえていることに嬉しくなった。
「それで君は? 君は何ていうの?」
僕は手のひらを返し、彼女を示して尋ねた。
「XXXX……」
すると、彼女は何かを言い淀んだまま、ふっと目線を落とした。そこには彼女の紅い花の髪飾りがあった。僕は何となくその意味が分かった。たぶん『わたしは……』だ。
「いぇりぅしゅうぁ……」
「え?」
彼女は雫を垂らすようにポツリと呟いた。『いぇりぅしゅうぁ』——日本語の文字で表すとそんな風に聞こえたけど、実際はもっと聞き慣れない複雑な発音をしていた。
「えりぅしゅわ」
「えりしゅわ?」
彼女はもう一度ゆっくりと言った。今度はさっきよりも幾分か聞き取りやすく感じられた。僕が彼女に耳を近づけると、彼女はよりはっきりとした声で言った。
「えりしあ」
「エリシア?」
三度目は僕にも聞き取れるほど日本語に近い発音だった。エリシア——彼女は自分のことをそう名乗った。エリシア、それは確かに外国人の女の子っぽい名前だった。
「そうか、君はエリシアっていう名前なんだね。わたしは、エリシア」
「わたしは、えりしあ……」
僕が彼女を『エリシア』と呼ぶと、彼女は——エリシアは、紅い花の髪飾りをそっと手に包んで胸に当てた。そして、困ったような気恥ずかしいような、はにかんだ笑顔を浮かべた。でもすぐにその浮かない表情は晴れやかになり、彼女はニコッと笑った。
「わたし、エリシア!」
銀色の髪に、紅い瞳。とんがり帽子に、黒のローブ。その日、僕が秋葉原の駅前で見つけた不思議な女の子は、エリシアという名前だった。彼女は僕とは違う見た目をしていた。彼女は僕とは違う言葉を話した。僕たちは何度もすれ違いながら、懸命に言葉を交わしてお互いの名前を伝え合った。僕はふと、彼女の太陽のような笑顔を見ながら、こんなことを思った。
——エリシア、君は本物の魔法使いなのか?