「……そう、そうだよ。今言った通りだよ。え? 知らないよ。とにかくこっち来てくれよ。な? 頼むからさ。じゃ、切るからな」
僕は電話の向こうから聞こえる不満げな声を無視して半ば強引に通話を切った。画面には『通話時間:10分30秒』と表示されていた。僕はハアと大きく溜息を吐いた。あのまま押し問答を続けていたら、下手すると日が暮れそうな勢いだった。
振り返ると、ベンチに座ったエリシアが僕を不思議そうな顔で見ていた。僕は自分のスマホを改めて見直した。去年の春、高校の進学祝いに買い替えてもらった最新のスマートフォン。この国の人間なら誰でも使っている、世界的に人気の機種だ。
「ねえ、エリシアってスマホとか持ってないの?」
僕はスマホをエリシアに差し出して言った。すると、彼女はコテッと首を傾げた。
「XXXX……?」
それはまるでスマホという物体を今初めて目にしたかのような反応だった。彼女はトカゲの背中を触るように恐る恐る、指先でちょこっと画面に触れた。フッとスリープが解除されると、彼女はビクッと驚いて体を仰け反らせた。
「エリシアって、旅行でこっちに来てるんでしょ? 知り合いに連絡した方がいいよ。こんなところで一人で居ると危ないし、誰かに迎えに来てもらいなよ」
僕は彼女の隣に座ってスマホを持たせた。ホーム画面から電話アプリを開くと、エリシアはまた困ったような顔で僕を見た。本当に使い方が分からないようだった。
「XX、XX、XXX……」
あれからしばらく、僕と彼女は身振り手振りでお互いのことを伝え合おうと頑張った。その結果、分かったことは『無理』ということだった。彼女は両手でスマホをちょこんと持ったまま、オロオロと僕の反応を窺っていた。僕はまた途方に暮れた。まさか今どき、海外旅行に来るのにスマホの使い方が分からない人間なんているのだろうか。
「誰かの番号覚えてる? 親とか友達とか……大使館とか?」
「XX、XXX……」
エリシアはしゅんとして肩をすぼめた。僕は諦めてスマホを受け取った。これ以上はもう僕の力だけでは無理そうだ。仕方ない、さっき呼んだ『助け船』が到着するのを待つとしよう。家が近くだし、もうすぐ来るだろう——と、僕がそう思った時だった。
「あのー、お話中すみません。ちょっとよろしいですか?」
聞き覚えのない声に顔を上げると、そこに一人の男性警官が立っていた。旭日章の入ったキャップに、濃いブルーのジャケット。肩から胸にかけて伸びた螺旋状のコードの先には無線のレシーバー、腰のホルスターには黒い警棒と拳銃が取り付けられている。防刃着で大きく膨らんだ上半身と、プロレスラーのようにがっしりとした下半身。その男性は、ひと目で本物の警察官と分かる姿をしていた。
「え? 僕たちですか?」
「うん、そう。お兄さんと、そこの外国人のお姉さん。少しお話聞かせてもらっていい? あんまり時間は取らせないし、ここでいいからさ」
僕が驚いて尋ね返すと、警官は朗らかな表情で頷いた。僕は嫌な予感がした。
「申し遅れました。私、駅前交番の『佐々木』といいます」
佐々木と名乗る男性警官は、ジャケットの懐から警察手帳を取り出してパカッと開いた。中のホルダーには、フォーマルなポートレート写真と共に『警部補 佐々木敦』という名前が書かれていた。作り物には見えない。間違いなく、本物の警察官だ。
「あの……僕たちがなんですか?」
僕は警察手帳に写った写真の彼と、目の前に居る現実の彼とを見比べた。40代後半くらいの中年の男性で、声はしゃがれて低く、首周りには贅肉がついていた。それでも背丈は僕よりも明らかに大きく、がっしりとした体格をしていて、太い眉毛が目についた。
太陽を背にした佐々木警官のシルエットは見た目以上に大きく、僕はひどく強い威圧感を感じた。エリシアはひどく不安そうな表情をして、僕にそっと寄り添ってきた。
「お姉さん、どこのお店の人? 知ってるよね? ここらへん、条例で客引きはだめってことになってるの。迷惑だし、最近は外国人の観光客も多いから。ボッタクリとか、色々と怪しい店も多いしね。ねえ、日本語分かる?」
「え、なんですかそれ、だって他にも……」
たくさん居るじゃないですか、と僕は言おうとした。だが遅かった。さっきまで広場に大勢たむろしていた客引きたちはすでに、干潮の砂浜のようにパタリと姿を消していた。目立つコスプレ姿で広場に取り残されたのは、エリシアただ一人だけだった。
「うん。まあ、一応ね。ルールはルールだから。この国の。守って貰わないとね。お姉さん、どこの国の人? 随分と若く見えるけど、もしかしてまだ未成年?」
「XX、XX、XXX……」
エリシアは怯えたような声を漏らして僕の裾をぎゅっと握った。佐々木警官はそんな彼女をにっこりと見つめた。一見、物腰柔らかな印象を受けるが、それが職務上の対応であることは明らかだった。慇懃無礼というか、丁寧だからこそ感じる、ねっとりとした嫌な印象。僕はすぐにこの警官のことが嫌いになった。
「あの、この子はそういうんじゃないっていうか……とにかく、違いますよ」
僕は彼女を背に隠すようにすくっと立ち上がった。すると彼は意外そうな顔をした。
「そういうのじゃないって、どういうこと?」
「この子は……僕の友達なんです。紛らわしいけど、お店の衣装とかじゃないんですよ。ほら、別にチラシとか看板とか持ってないですよね。だから、これはつまり……」
「……これはつまり?」
「……私服です、この子の」
「私服ぅ?」
僕がそう言うと、彼は眉をひそめてエリシアをよりいっそうジロジロと見た。
「私服って、これがかい? こういうのってあれだろ? そう、魔女の格好だ。おとぎ話とか、アニメによく出てくる。この子、そんな格好を普段からしてるの?」
「そうですけど。変ですか?」
「変……って言うんじゃないけどさ。普通ではないよね。コスプレってやつ?」
「はい。この子、日本のアニメが好きで、こういう服を着て出歩くのが趣味なんです。アキバに来たのもそれが目的なんです。ここなら、こういう格好でもあんまり目立たないからって」
僕は彼女に降り掛かったあらぬ疑いを晴らすために咄嗟に作り話をした。彼女が客引きでないことは本当だし、むしろ本物を取り締まらずに無関係な彼女を見せしめにする態度が気に入らない。僕はこの警官をどこかに追い払うために、嘘を吐き通す覚悟をした。
「まあ、そういう人もここじゃ珍しくないけどさ。紛らわしいからやめてほしいよね。私服って、それで電車とかにも乗ってるわけ? いくら外国人だからって、それはちょっとねえ。ハロウィンでもないわけだから」
その警官のひどく呆れた物言いに、僕は思わずカチンと来てしまった。
「だめですか? こういう格好してちゃ。そんなの本人の勝手じゃないですか」
反射的に言って、すぐ後悔した。しまった、これじゃ逆効果だ。僕が今やるべきことは、できるだけ早く、かつ穏便にこの場を収めることなのだ。無駄な反感を買っている場合じゃない。でも遅かった。それは僕の口から出てしまって、もう元には戻らなかった。
「だめじゃないよ。でもさ、みんなビックリしちゃうでしょ。公共の場には色んな人が居るわけだからさ、どんな格好してもいいわけじゃないんだよ。そういうのはそういうイベントとか、人目につかない室内で楽しむものでしょ。みんなちゃんとルールを守ってるんだよ。違う?」
「それは……そうです。すみません、生意気なこと言って。この子、交換留学で日本に来たばかりで、そういうルールとかよく知らないみたいなんです。日本には本当にアニメのキャラが居るとか、本気で信じてたみたいで。ごめんなさい、後で言っときますから」
僕は冷静になり、ペコッと頭を下げた。どうせ何もかも嘘なのだ。肯定しようが否定しようが、僕には何の関係もない。結局、こういう説教好きのオッサンには、こうしてしおらしく振る舞うのが一番マシなのだ。なんでこんなことばかり頭が良くなるんだ——。
「いや、分かればいいんだよ、分かれば。うん、これから気を付けてね」
その説明に納得したのか、警官はさっきより落ち着いた口調で言った。僕は内心ホッとしながらも、本当のところは納得してなどいなかった。そもそもそっちの勘違いから始まっているのに、どうして僕が謝らなければいけないのだ。
エリシアはただここに居ただけで、何も悪いことなんてしていないのに。僕はそんなふつふつとした怒りを抑えながら、それが顔に出ないように努めた。
「そういえば、君も結構若そうだけど。年いくつ?」
警官は疑問の矛先をエリシアから僕に向けたようだった。
「16です。今年で17になりますけど」
「17……ってことは高2? こんな時間に何してるの、学校行かなくていいの?」
「行ってないんです。高校、辞めたんで」
「行ってない?……それ、本当の話?」
僕がそう言うと、警官は虚を突かれたように目を丸くした。そしてジロジロと僕のことを見た。エリシアと違って、僕は明らかに私服と分かる格好をしている。ベンチに置いたリュックも、服屋で買ったレジャー用のものだ。一見して、予備校の通学鞄には見えない。それは普通の人間なら誰でも思い浮かべるような、当たり前の疑問だった。
「本当ですよ、これ見てください。僕、今ここに通ってますから」
僕は財布を取り出し、通っている予備校の学生証を彼に見せた。それは全国的に有名な大学受験の予備校の正式な学生証で、僕の顔写真もしっかりと貼り付けられていた。
「高卒認定……コース? なんだい、そりゃ」
警官はとても胡乱げに眉をひそめて、学生証に付記された僕の所属を読み上げた。
「大学に行くための資格ですよ。昔は大検って言ってたみたいですけど」
「ああ、大検。それなら知ってるよ。へえ、いつの間にか名前変わったんだな」
彼はぽんと手を叩いて得心したような表情を見せた。僕はうんざりした。それは彼にとっては人生で初めての体験だったのだろう。だがそれは、僕にとってはこの半年の間、嫌気が差すほど繰り返してきた不愉快な体験だった。
マンションの管理人、市役所の職員、医者、薬局の受付——。高校を辞め、東京の予備校に編入してからというもの、僕は新しい場所で出会う新しい人たち全てにそのような説明をしなければならなかった。指定の制服を着ていれば、誰からも何も尋ねられなかった去年までとは——違って。
「じゃあ今は頑張って勉強中って感じなんだ。へえ、偉いねえ。感心するなあ」
取り出して見せた学生証の効果はてきめんだったようで、その警官はすっかり僕の話を信用したようだった。そりゃそうだ、と僕は思った。だって本当のことなんだから。僕が高校を辞めてここに居るという話も本当だし、この学生証も正真正銘の本物だ。
でも——だからなんだっていうんだ?
僕は事実を事実として彼に語り、彼はその事実を事実として受け入れた。だが僕は事実を語る僕の物語りの中に、一欠片の真実も込めていなかった。
それは僕のことじゃない。それは僕を——少なくとも今の僕を——表した言葉なんかじゃない。だから信じても信じなくても同じだ。どっちだって——何も変わらない。
「おっと、もうこんな時間だ。交番に戻らなきゃ」
佐々木警官は時計台を見上げてふと思い出したように言った。
「そうそう、君、知ってるかい。名前が変わったって言えば、『交番』も昔は『派出所』って呼ばれてたんだよ。ほら、『こち亀』っていう漫画あるじゃない。『こちら葛飾区亀有公園前派出所』、あれが始まった時はみんなそう呼んでたんだよ。懐かしいなあ」
「へえ、そうなんですね」
僕は興味がありそうなふりをして返事をした。この警官が全てに納得して今すぐどこかに消えてくれるのなら、僕は何だって言ってやるさと思った。
「じゃあこれで、失礼するね。バイバイ、えーと……魔法使いのお姉さん」
佐々木警官は帽子のつばを軽く握ってお辞儀をした。エリシアは終始表情を固くしたまま、彼の言葉には返事をしなかった。そんな彼女に代わって、僕が彼にお辞儀をした。
「お名前、何ていうのかな。はろー、ゆあねーむ?」
彼はさっきの僕と同じような質問をエリシアにした。エリシアは人見知りをする小さな子供のように僕の裾を掴んだまま口をつぐんでいた。
「この子、日本語全然分からないんですよ、英語も。名前は……エリシアです」
「へえ、そうなんだ。なのに日本に来ちゃったんだ。すごい話だねえ、それも」
彼は一人で言って一人で楽しそうに笑った。僕もヘラッと愛想笑いをしておいた。
「じゃあ、日本の観光楽しんでね、エリシアさん。でも人にあまり迷惑を掛けないように。君の安全のためにも、色々と気を付けてね」
彼はにっこりと笑って敬礼をすると、くるりと踵を返して歩き始めた。僕はようやく安堵の一息を吐いた。やれやれ、一時はどうなることかと思ったけど、どうやらうまく場が収まったようだ。にしても、あいつ何してるんだ? さっさと来いって言って——。
「……あ、そうだ。最後に一つだけいいかな?」
「えっ?」
ハッと俯いた顔を上げると、まだ警官がそこに居た。僕はぎょっとした。こいつ、さっきどっかに行かなかったか? また戻ってきたのか? どうして気付かなかったんだ?
「その子、どこの国の人なの? ここら辺でも、あんまり見慣れない顔してるけど」
一体何だと身構える僕に、彼は気軽に言った。なんだそんなことか、と僕は思った。
「えーと……リトアニアです」
「リトアニア?……って、どこにある国?」
僕が適当に言ったそんな明らかな嘘にも、彼は疑う素振り一つ見せなかった。
「ヨーロッパです。ヨーロッパの……北の方。詳しい場所は僕もよく知りません」
「へえ、聞いたことない国だな。大きい国なの?」
「さあ……僕もちゃんとは知らないんです。でも、わりと小さい国ですよ」
「じゃあ、そういうのもあっちでは普通なのかね。おじさん、海外旅行に行ったこと一度もないから、全然そういうの分からないけど」
「はい、そうです。こっちだと珍しいけど、あっちだとみんなこうみたいです」
「そっか、そっか。リトアニアか……なんだか魔法の国みたいな響きだな、はは」
「そうですよね、本当におとぎ話みたいな国なんですよ。実際に写真で見ると」
そんなわけあるかよ、と僕は言いながら思った。リトアニアという国がどこにあるかなんて、僕は知らない。僕はただ、ドイツやフランスと言うと明らかにイメージが違うから、何となく聞いたことのあるマイナーな国の名前を出しただけだ。
リトアニアなんての国がどんな国かも知らないし、そこにこんな見た目をした人々が住んでいるかどうかも知らない。というか、たぶん絶対にそんなことはない。だがそんな僕の雑な作り話にも、彼は少しも疑いを持っていないようだった。底抜けのお人好しだな、と僕は彼を嘲った。
「じゃあ勉強頑張ってくれよ、トモヤくん。おじさん、応援してっから」
佐々木警官はそのように言い残し、やっと僕たちの元から離れていった。僕は彼の姿が広場の出口から見えなくなるまで、その場に立ったままじっと『POLICE』と書かれた彼のジャケット背中を見つめていた。
「トモヤ……XXX?」
僕の後ろでエリシアが不安そうな声を出した。僕とあの警官が何を話していたかなんて彼女には分かるはずもないけど、何かしら不吉なことが起こっていたという雰囲気だけは、彼女にもしっかりと伝わっていたようだ。エリシアは僕の裾を引っ張って僕をベンチに引き寄せた。
「ああ、別にいいんだ。こういうのってよくあるし、慣れてるからさ……」
僕は彼女に嘘を吐いた。こうして平日の昼間に私服で街を歩いていると、警官に限らずよく大人に声を掛けられる。僕はそのたびに財布から学生証を出して、自分の身分を証明しなければならなかった。それは偽りのない事実だった。だが、それに慣れることなどあるはずなどなかった。
「あのー、お取り込み中すみませんけど。お兄さん、そこで何やってんすか?」
「……遅えよ。お前こそ何やってたんだよ。もう30分も経ってるじゃんかよ」
馴染みある声にキッと顔を上げると、そこには僕が呼んだ『助け舟』が立っていた。
「あのさー、あたしにも予定ってもんがあんだよね。年中暇人なあんたとは違って」
黒色の髪に、黒い瞳。くしゃっとした癖っ毛のショートヘアに、ジトッと湿った猫のような目つき。黒いオーバーサイズのパーカーをワンピースのように着込み、下はグレーのショートパンツにハイカットのスニーカー。少し鼻に詰まったような独特の声で、不機嫌そうに僕にぶつくさ文句を言うその少女こそ、僕の友人が一人——春日あまねだった。
「何だよ、その言い方。予定なんかお前にだって無いだろ」
「ふん。あと2時間くらいはベッドですやすや寝てるつもりだったんだよ。今朝寝たの、5時半くらいだったし。ふああ、ねむ」
あまねは乗りつけたクロスバイクのハンドルを握りながら大きな欠伸をした。どうせ昨日も遅くまでパソコンの前に座っていたのだろう、涙ぐんだ目の下にはクマがくっきりと残っている。
「てかさ、それはどーでもいいんだよ。いきなり電話かけてきたと思ったら、『アキバの駅前で魔法使いみたいな子を見つけた』だなんて言い出してさ。トモヤ、あんたばかなの? そんなこと言われてもまじで意味分かんないから。ねえ、もっとちゃんと説明してよ」
あまねはブツブツ文句を言いながらスタンドを乱暴に蹴りおろし、僕の目の前に顔を寄せてじっと睨みつけた。説明が省けたが、春日あまねとはこういう人間である。彼女は僕と同い年だが、春に誕生日を迎えて17歳になっており、そのせいか何かと年上面をしてくる。というか単に僕を舐めきっている。僕は『なんか言いなさいよ』という彼女の無言のプレッシャーに負けて、明後日の方向に目を逸らした。
「あたし、さっきあっちから見てたけどさ、なんか警察来てなかった? どーいうこと? トモヤ、あんた、また何かやらかしたの?」
「またってなんだよ。そんなこと一度もしてないよ。変に誤解されること言うなって」
「ふん。どーせ、学校サボって遊んでる不良か家出少年に勘違いされたんでしょ。警察って基本バカだからさ、平日に私服で歩いてる子供が居たら全員そーだって思ってんだよね。あーやだ、想像力の無いバカな大人って。見ててイライラする。死ねばいいのに」
「あのな……お前こそ勝手な想像で物言ってんなよ。さっきの奴は……ほら」
僕はあまねの口の悪さに呆れながら、後ろを振り返った。見ると、エリシアは新たに登場した小さな怪獣に、おっかなびっくりな顔をして小さく縮こまっていた。
「トモヤ、XXX、XXXX……?」
「ああ、心配しなくていいよ。こいつはさっきの人とは違うから。こんなんでも一応、僕の知り合い、てか友達? と・も・だ・ち」
「とも、どぅぁち?」
「そう、友達。怖いけど、友達」
そう言うと、エリシアはふっと固い表情を柔らかくした。そして僕の陰からチラッと顔を出して、その紅い瞳であまねをじっと見上げた。
「な、言った通りだろ? この子、なんかここで困ってたんだよ。日本語も英語も喋れないし、そのうえこんな格好してるから、客引きと間違えられて警察まで来ちゃってさ」
僕は体を退けて二人を対面させた。あまねの言い分はもっともだが、僕にだって言い分はある。銀色の髪に、紅い瞳。とんがり帽子に、黒のローブ。誰もがひと目で魔法使いと分かる姿——つまり、エリシアはそういう子なのだ。他に何と言い表せるだろう?
「XX、XXXX……」
エリシアは彼女を見上げたまま恐る恐る言った。彼女の言葉で『あら、よろしく』とでも言ったのだろうか。あるいは『なに、このひと……』と怯えているのだろうか。どっちにしろ自然な反応であることには変わりがない。僕はエリシアに常識と呼べるものがあることに安心した。だが、それを見たあまねは、とんでもなく非常識な反応をした。
「ちょ、ちょっとトモヤ! こっち来て、話! 話があるから!」
「は? こっちってどっちだよ。話ならここでも——」
「いいから、こっち来てってば、早く!」
あまねは僕の腕を掴むと、エリシアを残したまま、離れた場所に僕を連れ出した。
「おい、何なんだよ。いきなりそんなに驚いたりして。何かあったのか?」
「当たり前でしょ! トモヤ、なにあの子? なんであんな格好してんの?」
「え……。さあ、なんでだろうな。ちなみにあれ地毛だって。目も、カラコンじゃない」
「そんなの見れば分かるよ! だから『なんで?』って聞いてんの! あの子、まるでアニメの中から出てきちゃったみたいじゃん。おかしいでしょ、どー考えても!」
『まるでアニメの中から出てきちゃったみたい』——その言葉に、僕はストンと納得感を抱いた。まさに言いえて妙だ。それはまさに彼女のためにあるような言葉かもしれない。
「だから電話でそう言っただろ。『ひと目で魔法使いって分かる』って……」
「言ったけどさ。フツー、そんなの何かのたとえだって思うじゃん。ベッドで寝てたら電話でいきなり叩き起こされて、『魔法使いを見つけたからちょっと来てくれ』なんて言われてさ。『ふーん、そっか、魔法使いか。じゃあ起きて行こ』とはならないでしょ! あたし、今度こそあんたが頭おかしくなっちゃったって本気で心配したんだからね!」
「何だよそれ。それじゃ、いつも僕が頭おかしいこと言ってるみたいに聞こえるだろ」
「言ってるんだよ、いつも! あたしたちの耳にはそう聞こえてんの。ヒナタやユキを連れてきた時もそうだったでしょ? あんたの話はいつも肝心なところが抜けてんの。一度聞いただけじゃ、何がどうなってるのか、ぜんっぜん伝わってこないの。てかばかなの」
「あー、うるっさいなあ。確かにさ、僕だって子供っぽくて馬鹿みたいなこと言ってるなって思ったよ。でも、実際そうなんだから仕方ないだろ。それ以外にどう言い表せっていうのさ。髪の色も目の色も、服装でも何でも、みんな僕の言葉通りだっただろ?」
「そうだけど……そうじゃないっていうか。あー、まじしんど。熱出てきたかも」
あまねは額に手を当て、はあはあと荒くなった息を落ち着かせた。彼女は爪先立ちをして僕の肩越しにエリシアを覗き見た。エリシアは、所在なさげに肩を落としていた。
「……で、ほんとは何なの、あの子。外人ってことは分かるけど」
「さあ。ていうかこれ以上話せることはないよ。言葉が全く通じないんだから」
「はあ? じゃあ、どこの国の人かも分かんないってこと?」
「そうだよ。英語も通じないし、そもそも何語を喋ってるのかも分からないんだ。何であんな格好して、ここに居るのかも分からない。でも、迷子ってのは間違いないと思う」
「え……それこそ何で分かったのさ。本人がそう言ったわけじゃないんでしょ?」
「まあ何となく。寂しそうだったし、誰かと待ち合わせてる様子もなかったから」
「何となくって……あんた、まさかそれだけの理由であの子に声かけたの?」
「そうだけど、なんか文句あるかよ」
「……はあ、あんたってやっぱ、ちょっと頭おかしいわ。知ってたけど」
あまねはパーカーの袖から飛び出た小さな手を自分の胸に当て、心底呆れたように言った。そんな事実は知られてないし、ちょっとも何も僕の頭はおかしくなんかない。
「じゃあ、なおさらここで何やってんのって話。迷子なら、さっきの警察に預ければよかったじゃん。大使館にいけば、帰りの飛行機くらいは手配してもらえるっしょ」
「ああ、それな。無いんだよ、パスポート」
「は?」僕がそう答えると、あまねは目を点にして口をポカンと開けた。
「ないってどういうこと? なくしちゃったってこと?」
「それは知らないけど。でもとにかくあの子、何も持ってないんだよ。スマホも鞄も、それどころか財布も持ってなかった。普通、そんなことありえるかな?」
「何でそこだけ疑問形なの! それ以外にも変なとこいっぱいあるでしょ!」
僕が首を傾げると、あまねは尻尾を触られた猫のようにフーッと牙を剥いた。
「あの子、あそこで置き引きにでも遭ったんじゃないかな。アキバには普通に観光に来ててさ。あの格好のまま写真とか撮ってたら、その隙に全部盗まれてたとか」
「いや、だとしたら、めっちゃやばい状況じゃん。まじでさ、警察に連れてってあげた方がいいんじゃないの? こんなところでのほほんとしてる場合じゃないでしょ」
「そうだけど、まだそう決まったわけじゃないし。警察に行く前に、一度ちゃんと話を聞いてあげた方が良くないかなって。困ってるのは本当っぽいし」
「……なんかあたし、だんだんあんたがマトモなこと言ってるように思えてきた」
あまねは頭をクラクラさせながら言った。
「そうだよ。お前が変に話を複雑にしてるんだよ。僕が言ってるのは、迷子で困ってる外国人が居たから助けてあげようぜってことだけだよ。そんなの、普通のことだろ?」
「だから、それが一言足りてないって言ってんの。あの子……やっぱりどう見ても変でしょ。ううん、めっちゃ変。やっぱりなんか怪しい人なんじゃない? 外国人だし」
あまねはまた僕の陰からチラッとエリシアを見た。僕はその言い方にムカッときた。
「……お前が言えたことかよ」
「え?」ボソッと僕が呟いた言葉は、あまねの耳には届かなかったようだった。
「だからさ……エリシアはいい子なんだよ。そんなの話したらすぐ分かったってこと」
「エルシア? それがあの子の名前なの?」
彼女の名前を口にすると、あまねは変な言い間違えをした。
「エリシア。元の発音は全然違うけど。とりあえずそんな感じに聞こえた」
「へー。エリシア。エリシア、エリシア……。んー……」
僕が訂正すると、あまねはなぜか釈然としない様子で彼女の名前を唱えた。
「なあ、中村さんならエリシアの言葉が何語か分かるんじゃないのかな?」
「中村さん? あんたまさか、あの子を『ラボ』に連れてくつもりなの?」
僕がある共通の知人の名前を出すと、あまねはサッと眉をひそめた。
「ああ。落ち着いて話せる場所が欲しいじゃん。てか、お前を呼んだのもそのためなんだけど。いやー、さすがに、僕一人であそこにあの子を連れてくのはどうかって思ってさ」
「まあ……あそこ、場所もバリ悪いし、外からの見た目もまじで終わってるもんね」
「そうそう。でさ、あまね、おまえって一応、女じゃん。だからお前になら、あの子もついてきてくれるかなって思ったんだよ。僕って紳士だろ?」
「は? なにそれ、なんかキモ」
僕が言うと、あまねはじっと目を細めて口をへの字に曲げた。僕はガクッと項垂れた。説明が省けたシリーズ、第二弾。春日あまねとは、とにかくこういう人間である。人を慮る能力に欠けるというか、自分の感情をオブラートに包んで人に言うことができない。だから必然的に何を言っても口が悪くなるし、彼女と話した人間は誰でも、彼女に対して刺々しく、嫌味で、生意気な印象を持つことになる。まあでも……悪いやつではない。
「じゃ、決まりな。お前もちゃんと挨拶しろ、エリシアさんに」
「さん? なにそれ。あの子、あたしやあんたより年上なの?」
「さあな、外国人なんて見ても分かんないよ。逆に年上だったら失礼になっちゃうだろ」
「さすがにそれはないよ。どう見ても高校生くらいっしょ」
——ピタッ。あまねが何気なくしたその一言に、僕は彼女に伸ばしかけた手を止めた。
「え? なに、あたしなんか変なこと言った?」
「……いや、別に。ほら、早くしろよ。長く待たせちゃって気まずいだろ」
「ちょ、ちょっとやめてよ。まだ心の準備ができてないっていうか……にゃっ!」
隙を見てクロスバイクに逃げようとするあまねと、確保する僕。いざとなるとゴチャゴチャとうるさいやつだ——と、呆れながら華奢な背中を押すと、手のひらに何か硬いものの感触があった。チラッと目を落とすと、ズレたパーカーの襟口から、白いブラ紐が覗いていた。……こんなんでも、やっぱこいつ女なんだよな、と僕は思った。
「は、はろー」
あまねはエリシアと再対面すると、ロボットのようにぴょこっと手を上げた。
「は、はるぉう……?」
その意味が伝わっていないのか、エリシアはあまねと同じ方の手を上げた。
「だから、英語も通じないんだって。お前、英語以外になんか喋れないの?」
「喋れるわけないでしょー。てか、あんたどうやってこの子から名前を聞き出したの?」
「気合だよ気合い。ひたすら連呼したんだよ。トモヤ、トモヤ、トモヤって」
「はあ? なにそれ、ばかじゃん。恥ずいって、自分で自分の名前呼ぶなんてやだよ」
さっきの僕と同じようなことを言ってる。でも仕方がないのだ。それしか方法がないのなら、そうするしかないのだ。
「エリシア、こいつはあまね。あ・ま・ね。君と同じ女の子だよ。……だよな?」
「だよなってなに! あたしはれっきとした女なんだけど!」
「知ってるよ! エリシアに男って思われてるかもって話だろ!」
誤解のないよう説明しておくと、あまねは同年代の女子の中でも特に体が華奢で、髪の毛も短いうえ、ボーイッシュな服装を好んで着ることから、パッと見では本当に女に見えないのだ。僕も初めて彼女と会った時は、声を聞くまで男だと勘違いしていた。
「あ、みゃぅ、にぇ?」
そんな複雑なニュアンスが伝わったのかどうか、エリシアは『あまね』と言った。
「そう、あまね。変な名前だけど、本名なんだってさ。変な名前だけど」
「あみゃね……へんにゃ……あみゃね?」
「変いうな! どっちも!」
あまねが顔を真っ赤にしてツッコむと、エリシアはビクッと肩を震わせた。
「あっ……ごめん。そういうの分かんないよね。別に、怒ってないから」
あまねはハッとした様子でエリシアの隣に座った。やれやれ、それができるなら最初からそうすればいいのに。僕はもどかしさにガリガリと頭を掻いた。
「あの、なんていうのかな、あたし……あまね。よろしくね、エルシィ」
あまねはテレテレとしながら、エリシアとの距離を詰めたり離したりした。
「エルシィ? なんだよ、その呼び方」
僕が不思議に思って尋ねると、あまねはじっと目を細めてそっぽを向いた。
「愛称だよ。こっちのが言いやすいでしょ。エリシアだと舌噛んじゃいそうだし」
「えりゅしぃ? あまね?」
エリシアは、波のように自分の近くを行き来するあまねを、不思議そうに見ていた。
「そう、エルシィ。だから、えーと……うわー、だめだ。何言えばいいのかぜんっぜん分かんない。トモヤ、あんた、どうやってこの子と仲良くなったの? ねー、教えてよ」
あまねは両手を頬にくっつけて困ったように言った。一方、エリシアは動物園に初めて行った子供のように、何も言わずキラキラと純粋な眼差しであまねを見つめていた。
「どうやってもなにもないよ。そもそも、仲良くなれてるのかも分かんないし」
僕は肩をすくめて言った。仲良くなったと思ったら普通にウザがられてた、とかだったら悲しすぎる。というか、絶対にそんなことはない。だってエリシアはいい子だし。
「あー、もう。こんなんで、どうやってこの子をラボに連れてくつもりなの。もういっそ無理やり手を引っ張ってく? やだー。そんなことしたらそれこそ不審者だし……」
「いや、もうちょっと頑張れよ。女同士なんだから、多少強引でも何とかなるって」
「あほ。この際そんなの関係ないでしょ。あたしだってやだよ。変なふうに思われ……」
「XX、エルシィ、XX、あみゃにぇ!」
「にゃあ!」
あまねが指差して何かを言いかけたその時、エリシアがパッと彼女の手をとった。あまねはそんな彼女の突然の行動に驚き、体がベンチからふわっと浮くほど肩を震わせた。
「な、なになに。なんなのよう、あたし、なんか悪いこと言った?」
あまねはエリシアに手を掴まれたまま見るからに狼狽した様子で言った。だがエリシアはそんなあまねの言葉を理解したのか、大きなとんがり帽子をふるふると横に振った。
「トモヤ、エルシィ、ともだち。トモヤ、あまね、ともだち。エルシィ、あまね、ともだち。とぅもぅ——だぁち!」
エリシアはあまねの手をぎゅっと包み込んだまま、そんな辿々しい日本語を語った。
「な、な……」
あまねはエリシアに手を握られたまま、まるで金縛りにあったように固まってしまった。そしてブリキ人形のようにギリギリとぎこちない動きで、僕のことを振り返った。
「な、なにこの子! え、ちょっと待って。エルシィ、めっちゃいい子じゃん!」
あまねはさっきまでひそめていた眉を全開放して、目をまん丸にして言った。
「はあ? さっきちゃんとそう言っただろ。お前、僕の話の何を聞いてたの?」
「言ってないよ! あんた『いい子』としか言ってなかったじゃん。違うじゃん! なにこれ? エルシィ、超超超超めっちゃいい子じゃん! ちゃんとそう言ってよ!」
僕はあまねのあまりの変わり身の早さに呆れた。何だそれ、僕こそ知らない話だ。
「あーん、エルシィ、ごめんね。こいつのせいで、あたし、エルシィのこと全然分かってなかったみたい。エルシィって、ただのいい子だったんだ。早くそう言ってくれればよかったのに。あ、てか言葉分かんないんだもんね。じゃあしょーがないか、にゃはは」
さっきまでのおっかなびっくり感はどこへやら。あまねはエリシアの手を握り返し、マタタビを浴びた猫のように、すりすりとエリシアにすり寄っていた。そんな好意的な反応を貰ったエリシアは、パッと顔を明るくして、見つめ合うあまねにグッと顔を寄せた。
「あまね、ともだち! エルシィ、ともだち!」
なんだろう、スピルバーグの映画でこんなシーン見たことある。なんだ、これが文化を越えた友愛ってやつか。やれやれ、あまねもあまねで単純で助かった。ひねくれてるのか素直なのか、本当によく分からないやつだ。
「ねえ魔法使いのエルシィ、エルシィはどこから来たの? エルシィはどんな魔法が使えるの? どうしてそんなに紅い目をしてるの?」
あまねは体を折ってエリシアを下から覗き込んだ。いたずらっぽい彼女の問い掛けに、エリシアはまた困ったように首を傾げた。
「XX? XXX? XXXX?」
「わー、なにその言葉。ほんとに聞いたことないや。ふしぎー、かわいー」
「おい、早く行こうぜ。また警察が来たら面倒だよ。なんか人も増えてきたし」
僕はきゃっきゃと睦まじく触れ合う二人を促した。彼女たちは気付いていないようだが、広場の中心に居る僕たちは次第に人目を引いているようだった。お昼時で増えた通行人たちは皆、表面上は無関心を装いながら近くを通り過ぎていったが、彼らが僕たち——というよりはエリシア——に向けた奇異の視線をチクチクと感じた。
「りょっと……ん、ラボには今ヒナタが来てるみたい。ユキはまだ授業中かな」
あまねはスマホのグループメッセを確認すると、すぐにショートパンツのポケットに突っ込んだ。そしてエリシアにぐっと手を差し伸べて言った。
「エルシィ、あたしたちと一緒に行こ?」
「XXX?」
「だいじょーぶ。いたくしないよ。てかめっちゃよしよししてあげるから」
あまねの黒いパーカーの胸で、金色の糸で縫われた猫の二つの瞳がじっとエリシアを見つめている。エリシアは、少し戸惑いながらも彼女の手をそっと取った。
「XX、XXX」
「きゃー。『シンデレラ』みたーい。今はあたしが王子様だけど。にゃはっ」
あまねは、はしゃぎながらエリシアの手を引っ張って立ち上がらせた。並んで立つと、エリシアの背はあまねより頭一つほど大きく、帽子を除けば僕と同じ高さだった。
「んじゃ、お城に向かって、しゅっぱーつ」
あまねはクロスバイクのスタンドを蹴り上げると、僕とエリシアの後ろをわざわざぐるっと回り込み、すれ違いざま、丸めた猫のような手でポンポンと僕たちの背を叩いた。
「あまね~、エルシィ~、ともだち~」
エリシアは、そんなあまねの後をカルガモの雛のようにヨチヨチとついていった。
「……変なやつ」
僕はそんな彼女たちの背中を遠目に呟いた。知り合ってもう半年も経つが、未だにあまねのことはよく分からない。気まぐれで、マイペースで、ひねくれているように見えるのに、時々こうしてハッとするくらい素直だったりする。あまねは僕の知るどの同年代の女子とも違っていた。そしてもちろん、どの男子とも違っていた。
中央通りに抜ける路地の中ほどで、僕は立ち止まった。今度は声が聞こえたわけではない。ただなんとなく、そこから広場を見てみたい気持ちになったからだ。
彼らは僕たちの世界に含まれていない——僕は、空っぽのベンチの周りを急ぎ足で通り過ぎていく人々を眺めながら、そう心の中で唱えた。
ふとビルの壁面を見上げると、そこには防犯カメラがあった。電源が入っているのかないのか、その四角いフロントガラスの向こうは真っ暗で、そこにあるはずの透明なレンズも見えなかった。それが本物のカメラなのかどうかは、見ただけでは分からなかった。