僕とあまねが『ラボ』と呼ぶその場所は、秋葉原の裏通りにひっそりと建った、3階建ての小さなビルの一室のことだった。それは、中村さんという僕たちの知り合いが一棟丸ごとを所有する個人的なビルで、彼はそのビルの3階を自分の住居として使い、1階をカフェとして貸し出していた。ラボとは、その間に挟まれた2階の空き部屋にある、彼の物置兼、遊び場のような空間のことだった。
中村さんは背の高い、不健康なほど痩せた青年で、いつも目の下に大きなクマを作り、顎には剃り残した無精髭が散らつく、とても風体の悪い大人だった。
彼はパッと見では20代後半から30代前半くらいの見た目をしていたが、実際の年齢は不詳で、それどころか、職業、経歴、出身、家族、交友関係など、彼に関するありとあらゆるプロファイルが謎に包まれていた。『中村』という名前も、彼と初めて会った時に「とりあえずそう呼べ」と言われたからそう呼んでいるだけで、それが彼の本名なのかどうかは知らない。
中村さんのビルの2階は以前、とある個人事務所が長く入居していたらしいのだが、数年前にそれが出ていってからは、新規の店子を募集することもなく、もっぱら彼の個人的な物置として使われていた。
いわゆる『オタク趣味』の人である中村さんは、自宅に入らなくなった漫画や古いゲーム機などをせっせと2階に運び込み、そこを自らの秘密基地と化していた。そこが『ラボ』と呼ばれるようになったのは、今から半年前、僕と彼が知り合ってからのことだ。
秋葉原のとある場所で出会った僕と中村さんは、お互いの年齢が(おそらく)一回りも離れているにもかかわらず、不思議と話の馬が合い、彼の自宅を訪れる運びになった。
表通りから何本も道を外れた薄暗い路地の一角をして、「ここ、俺んち」と言う中村さんの言葉を、僕はどうせ冗談だろうと思って素通りしてしまった。
それが、中村さんが日々ナチュラルに語る『嘘のような本当の話』であったことはさておき、彼は自分で招いておきながら3階の自室には上げてくれず、なぜか2階のガラクタ置き場に僕を案内した。そしてそれから、そこが僕と彼との集会場所になった。
当初、その部屋には家具と呼べるものが一つも無かったので、僕たちは床に座りながら、ダンボールを机代わりに名前も読めない外国のボードゲームを遊んだりした。そのうち、彼はどこからか足の折れたソファとテーブルを拾ってきて、ガラクタに囲まれたその部屋の真ん中に置いた。それが僕たちのラボの始まりだ。
『ラボ』という名前は、中村さんが好きな『シュタインズ・ゲート』というゲームに登場する、仲間内のたまり場の名前だった。それは秋葉原を舞台にしたタイムトラベル系のSF作品で、作中でも怪しげな雑居ビルの一室として登場した。彼はそこに大きなシンクロニシティを感じたらしく、ある日突然「ここを俺たちのラボとする」と僕に宣言した。
現実の場所にアニメと同じ名前を付けるだなんて、なんとも子供っぽいことをする人だと僕は呆れたが、不思議なことに、共通の呼び名が生まれたことで僕たちは以前よりその場所に愛着を持つようになった。定まった呼び名が無く、ただそこを『物置』とか『2階』と呼んでいた頃に比べれば、それは手ぶらで月に行けるほどの大きな進歩だった。
ともあれ、『研究所』という大層な名前とは裏腹に、僕たちはそこで何か科学的な研究をすることはせず、もっぱらゲームをしたり漫画を読んだりして時間を潰した。中村さんはそのビルの大家業以外に何かの仕事をしている様子はなく、僕が朝ラボを訪れるとソファの上で漫画を被って寝落ちしている彼を見つけたり、夕方近くになってのそのそと上から下りてきたと思ったら、そのまま僕たちが遊ぶゲームに乱入したりした。良く言えば自由気まま、悪く言えば自堕落。それが中村さんという人の生き方だった。
まだ若者と言えなくもない年齢の彼が、どうして大都会の中心にビルを所有しているのか?——その真相は闇に包まれていた。
僕がその理由を尋ねると、彼は決まって話をはぐらかし、「徳川の埋蔵金がこの下に埋まってるから」とか、「数年後に向かいのビルに現れる未来人を狙撃するため」とか、「畑にビルの種を植えたら生えてきた」などと、明らかな嘘ばかりを吐いた。そして最終的には「このビル……雌なんだよ」と意味の分からないことを言っていた。
中村さんは僕から見てもひどく子供っぽい性格をした大人だったが、時々目を瞠るような博識さを見せた。彼は電気街でタダ同然で買ってきたジャンク品のゲーム機をはんだごて一つで修理したり、道に迷った外国人観光客に話し掛けられた時は、何語かも分からない流暢な外国語で道案内をしていた。僕が「高卒認定の勉強をしている」と言うと、「ああ高認。理科は生物と地学が楽勝でオススメだぞ」と、無責任なアドバイスをくれた。
そんな意外な一面を目にするたび、僕は中村さんという人の素性が気になって仕方がなかった。だが彼が自らのことを進んで語ることは一度もなく、話の流れから問い詰められそうになった時には、「それは秘密です」と言って難を逃れた。もう知り合って半年も経つが、これが僕が知っている中村さんという人間の全てだ。
僕とあまねが出会ったのもラボだった。彼女は僕と違って生まれも育ちも東京の都会っ子で、浅草の分譲マンションに両親と三人暮らしをしていた。彼女の6つ上の兄はすでに家を出ていて、彼が遠方の大学に進学してからのここ数年間は、ほとんど一人っ子のような生活を送っているらしい。
あまねは高校に通っていない。でも、その理由は僕とは違う。彼女は生まれつきの学校嫌いで、区立中学に通っていた3年間は行ったり行かなかったりを繰り返し、結局、卒業後はどこにも進学しなかった。17歳になった今の彼女は、れっきとしたニートである。
彼女は共働きで教育熱心な両親のもと、小学生の頃から兄と共に英才教育を施されて育った。だが、国立大学に現役で合格するような秀才の兄とは違って、さほど勉学に秀でていたわけでもなかった彼女は、中学受験の失敗をきっかけに、両親(特に母親)との関係に破綻をきたし、今に至るという。
春日あまねという人間を一言で言い表すとしたら、『やりたいことしかやりたくない』タイプの人間だ。それは『やるべきことはなんでもできる』タイプの兄とは真反対の性格であり、哀れにもそれが『全ての子供に宿るごく普通の能力』だと勘違いした彼女の両親は、彼女の——自分たちの——再起を図って送り出した名門高校の受験票を、言問橋の袂に流され、彼女が隅田川の畔で日がな一日猫と遊んでいたことを知る由もなかった。
当然、そんな不良娘の暴挙を彼らが許すはずもなく、あまねが受験したはずの高校に全て落ちた(得点が0点だったのですぐにバレた)ことが判明した暁には、文字通り家が壊れるほどの大喧嘩を繰り広げたらしい。
もしそこにダッシュで帰郷した彼女の兄が仲裁に入り、「せめて二十歳を過ぎるまでは妹の好きなことをやらせてやれ」と場を収めてくれなかったら、今ごろ北海道の全寮制の農業高校にでも放り込まれていただろうと彼女は語った。その話を彼女から聞いた時、兄弟のいない僕は「なんて優しい兄貴なんだ」といたく感心した。だが実際、秀才の兄にそう言わしめるだけの特別な理由が彼女にはあった。
あまねはファンキーな見た目と性格に反して、コンピュータにとても詳しいギークな一面を持っていた。彼女は中学に入った頃から父親のお下がりのパソコンで独学でプログラミングを始め、卒業する頃にはすでに大人顔負けの技術力を身に付けてしまっていた。
彼女は「親と顔を合わせるのが嫌だから」という理由で日中のほとんどを寝て過ごし、家人が寝静まった夜の間に自室で黙々とソフトウェアの開発を続けた。明け方、倒れるようにベッドに潜り込んだ彼女が眠りから覚める頃にはすでに日は高く昇り、両親は二人とも働きに出て家は空っぽになっていた。彼女は冷蔵庫を漁って遅めの昼食をとり、気分転換に浅草の街をぶらついて夜まで時間を潰した。それがこの1年半のあまねの暮らしだった。
傍から見ればただのニートのような生活をしている彼女ではあったが、彼女の持つプログラミングのスキルは正真正銘の本物のようで、彼女はネットに公開している自身のソフトウェアに関して、その有用性から海外の有志たちから個人スポンサーのようなことを受けており、毎月少ないながらも(と言っても数万円だ)自分の収入としていた。
彼女が僕たちを迎えに来た時に乗っていたミヤタ・フリーダム・タフ(さもありなんという名前だ)も、彼女が自分のお金で買った『彼女のもの』なのである。
栃木の片田舎と、隅田川沿いの下町。そんな別々の世界を生きていた僕たちが、なぜ知り合うことになったのか?——答えは当然、中村さんである。僕と彼が知り合い、ラボをラボと呼び始めてからしばらく経ったある日のこと、彼から一通のメッセージが届いた。
『黒猫を拾ってきた。お前も世話しろ』——それはそんな要領の得ない短文だった。ついに生き物にまで手を出したか……と呆れながらラボを訪れると、呼び出したはずの彼はなぜか留守で、半開きのラボの扉を押し開けた先に居たのがあまねだった。
僕が初めて見たあまねは、今日と同じようなラフな格好のまま、裸足でソファの上に膝を立てて座り、その上にノートパソコンを載せてカチャカチャとキーボードを叩いていた。10本の指を同時に動かしながら、目にも止まらぬ速さで文字を入力していく彼女の姿は、栃木の田舎から出てきたばかりの僕にとっては、まさに衝撃的な姿だった。
キーボードの打鍵音だけが絶え間なく響く気まずい空気の中、僕は彼女に「あの、そこで何してんの?」と尋ねた。すると彼女はパソコンの画面から目を離すことなく、ただ一言「デバッグ」とだけ答えた。誰も居ないラボのソファの上でひとり『デバッグ』をしている、僕と同い年の女の子。それが僕とあまねの出会いだった。
「とうちゃーく」
ラボに到着すると、あまねはクロスバイクをビル前の路肩に停めてチェーンを巻いた。エリシアはソワソワとした雰囲気を漂わせながら、ラボの周囲の建物をキョロキョロと眺めていた。ラボがあるこの裏路地は外神田地域の中でも特に閑静なビル街で、飲食店や商業店舗もほとんど無いことから、日中は人通りもまばらで、駅前の喧騒が嘘のように静かなエアポケットだった。
「さー、着いた。ここがあたしたちの秘密基地。エルシィちゃん、おいでー」
あまねは階段に足を掛けてエリシアを手招きした。エリシアは『本当に平気?』と言いたげな不安な視線を僕に向けつつ、あまねに袖を引っ張られて連れていかれてしまった。ドナドナ。
「……ん?」
その時、僕はふと誰かの視線——のようなもの——を感じた。1階のカフェ『カムパネルラ』の中に目を向けると、奥のカウンターから白髪のお婆さんが僕に手を振っていた。彼女はそのカフェの店主で、名前は『キョウコさん』と言った。
僕は大家である中村さんが彼女と立ち話をしているところを見かけたり、こうしてガラス越しに見かけたことはあったものの、直接話したことはなかった。僕は感じた人の気配が本物だったことに急に恥ずかしくなり、ペコリと頭を下げて、そそくさとあまねたちの後を追った。
「……で、上段アクションで兵力を三つ取得して移動、メック1機とキャラでそっち陣内に侵攻して会敵、と。で、戦闘フェイズ」
「ぶぶー、残念でした。中村さん、そこトンネルないですよ。中村さんの陣営、キャラには渡河能力付いてますけど、メックは川渡れないからこっちには来れません。へいへい、勝手にボクの陣地に入らないでくれます?」
事前の予想通り、ラボの中には二人の人物が居た。一人はラボのオーナーである中村さん、そしてもう一人はラボの三番目のメンバー、ヒナタだ。二人は部屋の真ん中に置かれた大きなテーブルを挟んで何かのボードゲームに興じていた。テーブルの上には新聞紙ほど巨大な地形マットが敷かれ、さらにその上には色とりどりのコマやコイン、トークン、山札、点数表などがぎっしりと置かれていた。
「ほう、お前はこれが見えんのか。前のターンに俺がここに建造した『これ』が」
黒色の髪に、黒い瞳。ヨレヨレのロングTシャツに、ナチュラルに色が褪せたジーンズ。そして夏でもビーチでもないのに年中履いている安物のビーチサンダル。中村さんは寝癖でボサボサの髪を掻き上げながら、自分の陣地タイルを指差して言った。
「え?……あっ! そっか、坑道作ってるじゃん! うわ~、忘れてた……」
金色の髪に、青い瞳。深い紺色のロングワンピースに、贅沢にフリルがあしらわれた白いエプロン。腰ほどまである長い金色の髪を側頭部でリボンで留め、頭の上にはフリルのついたカチューシャを載せて、白いタイツの先にはワンピースと同じ色のストラップシューズを履いている。ヒナタはいつも通り、そんな誰もがひと目でメイドと分かる格好をしていた。
「あひゃひゃ。お前さ、ぜってー坑道の効果忘れてたよな。だってさっきのターン、俺が建築宣言した時もボケッとしてたしさ。建造物の星章獲るのもう間に合わないからってスルーしてただろ。いやー、甘えたな」
「ちょ、ちょっと待って。たんま、たんまです。やっぱメックをもう1機ここに……」
「ダメだ。ルール間違い以外の待ったなしって最初に言っただろ。で、まあたぶん絶対百パー俺の勝ちだけど、一応戦闘するか? 俺は5:5で出すの確定だけど」
「ふえん、無理ですよう。だってボクの勢力、ぜんっぜん兵力貯まらないんですもん。負けちゃいますよ。いやだー、やめてー、あうっ」
ヒナタは悲痛な声を上げてテーブルの上に腕を置いて突っ伏した。中村さんは心底楽しそうな嫌味な笑みを浮かべながら、ヒナタの額を思い切りデコピンした。
「はっはっは、んじゃ戦闘放棄な。んでこれで最後の星章を獲得っと。ま、点数計算するまでもないよな、やったぜ、俺の勝ち!」
中村さんは星型の点数表の目盛りを上げ、椅子から立ち上がってガッツポーズをした。どうやらゲームが決着したようだった。
「……あれ、トモヤさん、それにあまねちゃんも。いらしてたんですか?」
ヒナタは入り口に立ちっぱなしの僕とあまねの姿に気が付くと、うつ伏せていた体を起こした。テーブルの上に垂れていたツインテールが、スッと形を変える。どこからどう見てもコンカフェ店員の装いだが、それはヒナタが好き好んで着ている、ただの私服だ。
「おう、トモヤ。お前もやるか? 俺、このゲームのコツ分かってきたぜ」
勝利の余韻に浸った中村さんが、得意げな顔をしながら僕に声を掛ける。
「やめときます。それ始めると最低でも2時間は掛かりますから」
「バカ言え、だからこうして勝利の喜びもひとしおなんだろーが。見ろ、こいつの腑抜けた顔を。あー楽し。負けた奴の悔しがる顔を見たいがために、俺はゲームってもんをやってんだ。これ、ネットより対面の方が面白い絶対の理由な」
「だったら自分の苦手なゲームから逃げるのはやめてくださいよ。ねえ、次は『ぷよテト』で勝負しましょ? 1分でその鼻の面明かしてやりますよ」
「わりいな。俺んちテレビゲームは禁止だったんだ。ゲームと言ったらトランプかUNOしか許されない厳格な家庭でな。だけどそのおかげで他の奴らより豊かな人生が送れたと思ってる」
中村さんはそう軽やかに言って、机の脇に置いてあった『ニンテンドー・スイッチ』と『プレイステーション・ポータル』をズザザッとガラクタ箱に押し込めた。
「嘘吐かないでくださいよ。ボク、中村さんが定期的にウィキペディアの『ゲーム機の歴史』のページを荒らしてアクセスブロックされてるの知ってるんですからね」
「荒らしてねえ! 俺は当時をロクに知りもしねえ奴らがドヤ顔で『~であった』って断言してるのがムカつくから直してやってんだよ。へっ、IPベースのアク禁なんてVPN噛ませば一瞬で突破できるってのに、無駄な努力だぜ、まったく」
立ち上がって詰め寄るヒナタに、両腕を広げてやれやれというポーズをする中村さん。争いは同レベルの者でしか発生しないという格言があるけど、どうやら真実であったようだ。そんな二人を見かねたのか、僕の隣であまねが深く溜息を吐いた。
「あのさー。男同士、仲良く乳繰り合ってるとこ悪いけど、そーいうのは後にしてくんない? せっかく新人連れてきたのに、ここには変態とバカしかいないってバレちゃうじゃん」
「「誰が仲良く乳繰り合ってるだ/ですって!?」」
あまねの辛辣な言葉に、二人は即座に声をシンクロさせてツッコむ。ズレてる、ズレてる。ツッコミどころ違うって。もっと酷いこと言われてるぞ、お前ら。
「あまねちゃん、誤解を招くようなこと言わないでください。ボクと中村さんは仲良くなんかありません。むしろ仲悪いんです。だからこうして毎日違うゲームで対決してるんですよ。どっちが人間として格上なのかを分からせてやるために!」
「はいはい、欲しがりすぎ。でも今はスルー。言ったでしょ、新人連れてきたって」
「ふえん、あまねちゃんひどいです。ボケの放置は犯罪ですよ、駅前の交番のポスターにもそう書いてありました。お巡りさん呼んじゃいますよ」
ヒナタは鮮やかな水色のカラコン1)をうるうるさせて泣き真似をした。そういえば、すっかり言うのを忘れていたけど、ヒナタは僕と同じくれっきとした『男』である。
年齢は僕とあまねの二つ上で、コスプレ好きの趣味を活かして、駅前のコンカフェで接客のバイトをしている。いつもメイド服を着ている理由は尋ねていわく、『ただ単に可愛いからですっ』——とまあ、そういう人間だ。
体型は細身で僕よりも背が高く、童顔で男にしては声が高い。そしていつもばっちりメイクをしているので、あまねとは逆にパッと見では男に見えない。実際に、宣材写真で女の子と勘違いして店に来て、そのまま推しメンになって帰る客も居るとかなんとか。
「新人だと? なんだそれ、聞いてねーぞ。またそいつが拾ってきたのか?」
「そ、またこいつ。ヒナタと同じ。まあ同じっていうか、同じようなもん。だよね?」
あまねは中村さんの問いを僕に振った。そんなこと言われても困る。扉の陰を振り返ると、エリシアは『ここどこなんですか?』と、今にもダッシュで逃げ出しそうな表情を浮かべている。ああ……、一体全体、こいつらをどうやって紹介すればいいんだ……。
「ま、いいや。百聞は一見にしかずって言うしね。ほらエルシィ、入ってきて。はーい、魔法少女ちゃん、お一人様ごあんなーい」
そんな僕の内心などお構いなしに、あまねはチョロチョロとエリシアの後ろに回り込むと、彼女の背を押してそのまま強引にラボの中へ押し込んだ。敷居に躓いて思い切りつんのめったエリシアは、あわわと腕をぐるぐるさせて何とかその場に踏みとどまった。
「XX、XXX、XXX……」
『金髪メイドと黒髪無職』——そんなラノベのタイトルみたいな組み合わせの二人の前に放り出されたエリシアは、オロオロしながら僕とあまねの袖を交互に引っ張った。すまない、エリシア。助けてあげたいがもう手遅れだ。なぜなら今、君の前に居るのは——。
「か、きゃ、わ……」
オルゴールのネジを巻くようなキリキリとしたうめき声が聞こえたと思ったら、次の瞬間にはもうヒナタはエリシアの前に詰め寄っていた。
「きゃっ、わいひひーっ!!」
ヒナタは両目に綺羅星を浮かべながらぎゅっと手を組み、エリシアの目の前にガバッと顔を寄せた。エリシアは突然のことにびっくりして紅い目を見開き、鼻先まで詰め寄るヒナタから逃れるように、思い切り体を仰け反らせた。
「なんでですか? どうしてですか? ほわいあーゆーそー可愛いんですか?」
「XX、X、XXX……」
エリシアは突如接近してきたヒナタに対し、目を見開いて固まっていた。当たり前だ。看板もない怪しい路地裏のビルの一室に連れられてきたと思ったら、メイド服を着込んだコスプレオタクの男子にいきなり、『なんでどうして』と問い詰められているのだから。
「す、すごいですっ! こんなさらさらのウィッグ、ボク初めて見ました! カラコンもすっごくいい色してるし……これ、どこのメーカーのですか? えっ、すっごく衣装作り込んであるじゃないですか。生地も厚くてしっかりしてるし、ディティールえっぐ……」
銀髪の魔法使いを目で舐め回す金髪のメイド。不思議なことに、エリシア一人では異質に見えたその姿形も、ヒナタとセットで見るとそんなに違和感がない。
「あー、可愛いっ! うー、可愛いっ! 大事なことだから、何回だって言っちゃいます! はあ、はあ、めっちゃテンション上がってきた。ねえねえ、綺麗なおねいさん、これからボクと楽しいところに行きません? どこって言われてもちょっと言えない都内某所なんですけど。照明も撮影機器もその他衣装も完備されてるので、そのまま来てもらってもへーきです。あーもう、こんなにも素晴らしいレイヤーさんを前にして、指を咥えて見てるだけなんて絶対に無理です。ボク、我慢できませんっ。今すぐ写真撮らせてください、もっとたくさんのコスを着させてください、印税は50%でも60%でもいいです。だからぜひあなたをボクに——ぐえっ!」
ついにヒナタがどこかに電話を掛け始めたその時、彼の背後から蜘蛛のように長い手が伸びてきた。中村さんはヒナタの襟首を掴んでエリシアからグイッと引き剥がし、スマホを取り上げてブツと発信を切った。
「中村さん、邪魔しないでください! こんな可愛い子をキャッチせずにリリースするだなんて日本コスプレ界の損失ですよ! ボクにはコスプレ文化の伝統を受け継ぎ、未来を切り開く使命というものがあるんです。なのに、どうしてそれが分からんのですか!」
「うるせえ! 少し黙ってろ! あー、すまん。なんつーか、こいつバカなんだ。何を言われても真に受けなくていいから。いざとなりゃ本物の警察呼んでもいいからな」
中村さんは半笑いを浮かべながらエリシアに言った。ヒナタはなおもジタバタと彼の手からスマホを取り戻そうと暴れていたが、彼は手を高く掲げてそれを阻んでいた。
「あのねー。あんたたち、いくらエルシィがめちゃ可愛いからって、もっと常識的な歓迎とかできないの? 見なよ。エルシィ、ドン引きしちゃってるじゃん」
彫像のようにピシッと固まったままでいるエリシアを見たあまねが呆れ声で言う。
「逆にお尋ねしますが、こんなアニメみたいに可愛い美少女を前にして、ボクたちのちっぽけな常識など必要でしょうか? 否、むしろ捨てさせてください、お願いします」
ヒナタは襟を吊られたまま得意げに言ってのけた。『ああ言えばこう言う』という言葉があるけど、好きなものを前にしたヒナタにはどんな嫌味も褒め言葉にしか聞こえない。
「で、トモヤ。真面目な話、こいつは一体何モンだ? お前がいきなり変なやつを拾ってくることにもいい加減慣れたけど、レイヤー2)、絵描きと来て、何でその次がまたレイヤーなんだよ。登場キャラにはバリエーション持たせろって教えただろ」
中村さんはヒナタを後ろにポイッとうっちゃると、新人作家の原稿に文句をつける編集者のようなことを言い出した。いつものノリでオタク特有のボケをかましているものの、よく見るとどことなく目が泳いでいて、組んだ腕も心なしかソワソワと落ち着きがない。
「この子、エリシアっていうんですけど、駅前で困ってたから連れてきたんです。見ての通り外国人なんですけど、荷物も何も持ってなくて、どこの国から来たのかも分からないんですよ。中村さん……何か分かります?」
「いやいや、何かってなんだよ。何もだよ。もっとちゃんと説明しろよ。何でもかんでも読者の想像に任せようとすんな。そういう雑な演出はもうウケねーんだよ」
ボケたつもりでもないのにツッコミに擬態したボケをぶつけてくる中村さん。あまねはあまねでうんうんと頷いている。僕の説明って、そんなに分かりにくい!?
「いや、本当にそれだけなんですって。日本語も英語も通じなくて、そもそも何語を喋ってるのかも分からないんです。だから細かい事情は何も聞けてなくて……」
「おい、それマジで言ってんのか? あー、ハロー、ウェアユーカムフロム?」
中村さんの英語の挨拶にも、エリシアはさっきと同じ困り顔をするだけだった。
「だめだめ、英語は全然通じないから。ほんとに、いちっミリも」
「なるほど。へえ……」
中村さんは感心したように顎に手を当てると、ごほんと一つ咳払いをした。すると彼は翻訳アプリもなしに、僕の全く聞き覚えのない外国語の挨拶——らしきもの——をエリシアに投げ掛けていった。何語か分かったのは最初の数個だけで、あとは聞いたこともないような奇妙な発音がただひたすら続くだけだった。
「……だめだな。北半球でそれなりに使われてる公用語は全部試してみたけど、どれも通じねーわ。なあ、エリシア……だっけ? ちょっと喋ってみてくれね?」
僕は彼の持つその無駄に高い語学力に感心を通り越して呆れ返った。この人、本当に一体何者なんだろう。そしてこんなに知識があるのに、何でこんなニートみたいな生活をしてるんだろう。もっと才能を活かした仕事でもすればいいのに……。
「XX、X、XX、XXXX……」
「うげ、何だこれ……。ガチで聞いたことねーぞ。ごめん、もっかい頼むわ」
「XXX、XXXX、X、XXX?」
「うーわ、マジだ。本当に分かんねーわ。おい嘘だろ? いや本当なんだが」
中村さんは前髪を掻き上げて言った。そんな彼の反応を見るに、エリシアの喋る言葉は中村さんも知らないとても珍しい言語であったようだ。彼の言う『分からない』は、僕の言う『分からない』とは意味が違う。それは『本当に分からない』という意味なのだ。
「てかさー。中村さん、何でそんな色々な国の言葉喋れんの? 喋ってる風にテキトー言ってるだけじゃないの? どーせあたしたちには分かんないんだし」
「昨日の夜、多言語化パックをダウンロードしといたんだよ。備えあれば嬉しいなって」
あまねが投げ掛けた鋭い疑問をしれっと躱す中村さん。エリシアも謎だけど、この人の素性も大概謎すぎる。エリシアを『いい子』と言い表すなら、中村さんは『変な人』だ。
「おいトモヤ、どういうことだよ。お前、本当のこと言ってんじゃねーか」
「だから言ってますよ。なんで僕が嘘吐いてることが前提に話が進んでるんですか」
「あのな、さっき俺が喋った言語で地球上の人口の95%はカバーできてんだぜ。お前が連れてきたのは、それに引っ掛からない超絶レアキャラなんだよ。しかもこんなに……」
中村さんはそこでぐっと言葉を留めてエリシアをチラッと見た。エリシアは首を傾げて『こんなに?』と言いたげな表情を浮かべている。
「超が4つくらい付く可愛い美少女なんだよ。好きになっちまうだろーが」
「俺が言ったみたいにすんな。それはお前の心の声だろーが……」
背後に隠れて吹き替えをするヒナタに、振り返りもせず中村さんがツッコむ。そんな茶番をエリシアは緊張した面持ちで見ていた。
「なら見た目は? こういう感じの人たちが暮らしてる国って、どこか知りませんか?」
「はあ? それこそ何言ってんだよ。だってこれ、コスプレだろ?」
「違いますよ。よく見てください。髪も目も何もつけてませんよ。ていうか、僕この子がコスプレしてるだなんて一言も言ってませんけど……」
「は?」僕が呆れて言うと、中村さんは口をポカンと開けた。
「またまたあ。トモヤさん、そーいうところですよ、中村さんが言ってるのは。嘘を嘘と見抜けないと仲良しになれないだなんて、ハードル高すぎです。ほら、このルビーみたいに綺麗なお目々だって、よく見ればちゃんとカラコンが……」
ヒナタは井戸端会議の奥さん方のように『いやねえ』と手招きをし、エリシアに顔を近づけた。そして余裕の表情でニコニコと彼女の瞳を見つめ、急に真顔になって叫んだ。
「うわああああ! 本物だああああ!」
ヒナタはキュウリを見つけた猫のようにぴーんと飛び退き、中村さんの後ろに隠れて顔を覗かせた。エリシアはそんな彼の驚愕の反応にただ困ったような顔をした。あまねは「はあ」と大げさに溜息を吐いて、エリシアの腕を取って自分の体を寄せた。
「ばか。エルシィは元々こういう子なの。髪の毛も目も、全部自分の色。そんなの見りゃ分かるでしょ。ヒナタ、あんた何年レイヤーやってんの?」
「いーや、分かりません! フツー、『わあ~、すっごいクオリティの高いレイヤーさんだな~、可愛いな~』くらいにしか思えませんから! えっ、じゃあそのコスも!?」
「さあ。この格好のままアキバに遊びに来て、置き引きにでもあったんじゃないかって、トモヤは言ってるけど。で、どうよ中村商店。まだなんか残ってる?」
「バーロー。とっくに閉店だ、帰れ。都合により明日から長期休業」
中村さんはそう言ってガラガラとシャッターを閉めるジェスチャーをした。
「そんなこと言わないで。もっとちゃんと見てあげてくださいよ。目とか……」
「あのな。髪の色は変えられるだろうけど、目の色なんて変えられるわけないだろ。それこそ、こんなに鮮やかな紅い色になんて、できたらもう誰かやってんだろ。こいつとか」
中村さんはヒナタを親指で差して言う。ヒナタはうんうんと頷く。
「そういう人種の人も居るんじゃないですか?」
「居ねえよ、少なくとも人間には。動物なら緑とか黄色とかも居るけど、紅い目なんてほぼ居ねえぞ。しかも構造色じゃねえ、こんなにも純粋な紅色なんて、ありえねえって」
「じゃーあれは? ほら、アルビノってやつ。あたしネットで見たことある、目が真っ赤な白いライオンとか、ワニとか」
「ちげーよ。色素欠乏生物の赤目は、虹彩にある本来の色素が欠けて、眼底の血の色が透けて見えてるだけだ。あれはただそう見えるってだけで、実際の目の色じゃないんだよ。そもそも、髪の色はちゃんとついてるだろーが」
ビシバシとウィキペディアをする中村さんに、あまねは「へー」と感心する。
「でも、ちゃんとここに居るじゃないですか。中村さんが知らないだけですよね?」
「あのな、これだけメディアが発達した時代に誰も見たことのない見た目の人間なんてそうそう見つかるもんかよ。この1世紀の間に、北センチネル島3)の住民が全員こうなっちまったって言うのか? こんな珍しい見た目、それこそ……」
「アニメん中でしか見たことねーよ。お前、いつの間に2次元の世界に行けるようになってたんだよ。俺にも早く行き方教えろよ」
「合ってたら それはそれとて ムカつくな」
二人羽織のように心情を代弁するヒナタに、なぜか五七五でツッコむ中村さん。
「中村さん、頭が良いくせに時々めっちゃバカですよね。ボク、エリシアちゃんがどこから来たのかなんてすぐ分かりましたよ。むしろ逆にお聞きしたいです。どうしてみなさんはそんな簡単なことがお分かりにならないんですか?」
「は? マジかよ。お前何か知ってるのか? どこだよ、言ってみろよ」
「そんなの決まってるじゃないですか。『魔法の世界』ですよ! エリシアちゃんは『魔法の世界からこっちの世界に花嫁修業にやってきた、魔法の国のお姫様なんです。そんな設定、説明する必要あります? へいへい、中村〝腐れオタク〟名誉十段ともあろうお方がどうされたんです? こんなにビジュ4)いい子が現実に居るわけないじゃないですか!」
「アホが。お花畑咲かすんなら頭ん中じゃなくて砂漠でやれ。せめて人々の希望になる」
「はあい、りょーかいですっ☆」
中村さんのキレキレのツッコミに、ピースサインでウィンクを決めるヒナタ。やれやれ。いつものラボの平常運転だけど、さっきから肝心の話が一つも進んでいない。
「だからさー。ふざけてないでちゃんとこれからのこと考えてよ。迷子なら迷子でどっかに送り届けなきゃだし、エルシィがどこの国の人でも、まずは言葉が分かる人を見つけなきゃでしょ。こんな訳分かんない状況、ユキが見たら変な誤解して逃げ出しちゃうよ」
「……やっぱり、警察に連れていってあげた方がよかったんでしょうか?」
僕は今さらになって後悔の念を抱いた。僕はエリシアのことが自分一人の手に負えないと早々に判断したからこそ、あまねや中村さんたちの助けを求めたのだ。それでも、ここが彼女にとって最良の行き場所だったとは思わない。彼女の身の上を真剣に想うのであれば、僕たちはもっと別の選択をとるべきだったのではないか——と。
「まあ待て。切り札ってのは最後までとっとくもんだぜ。俺が分かんねえことが警察なんかに分かるわけねえんだし、お前の言う通り、少しは事情を聞き出してからじゃないと可哀想だろ。それに俺も久々にリアルに興味が湧いてきた。任せとけって」
長袖のシャツの腕をめくりあげながら、字面だけは頼もしいことを言う中村さん。
「でも言葉が通じないんじゃ話になりませんよ。何かいい方法があるんですか?」
「ああ、ある。それもお前らの想像を超えるとっておきのやつが、ちゃんとな」
「ま、まさか中村さん、『あれ』を使うんですか? 今、このタイミングで?」
「ああ、むしろ今使わなきゃいつ使うんだって話だろ。待ってたぜ、この時をな」
中村さんはそう不敵に宣言し、目元を手で隠したまま「フハハ」と高らかに笑い声を上げた。僕とあまねは「本当かよ」という半信半疑の目を彼に向けた。
「あれ?」
そんな僕たちの内心を知らないエリシアは、そう小さく呟いて首を傾げた。