「で、あれって具体的に何なんですか?」
中村さんはそれからすぐ、ラボの隅に積まれたダンボールの山に分け入り、ゴソゴソとガラクタを漁り始めた。まるで初めてのキャンプの前日のような張り切り具合だった。
「あれはあれだ、見りゃ分かる。あれ? おかしーな、確かこの箱の奥に……」
「これで『やっぱそんなもんねーわ』とか言ったら、しょーちしないからね」
隣に並んだあまねも、露骨な疑いの眼差しを彼の背中にジリジリと向ける。
「バーロー、嘘なわけねーだろ。思い出せ、今まで俺がお前らに嘘を吐いたことなんてあったか? 俺の親父は村一番の正直者で、誰からも信頼される一廉の人物だったんだ。そんな息子の俺が、平気で人に嘘を吐く大人に育つなんて悲しい話があるかって……お、あった」
中村さんはそう言って段ボールの奥底から何かをスポッと取り出した。
「てってれれっててー」
「なんですか、それ?」
「マイク~」
それはラジオの収録で使うような先端に風防の付いたガンマイクだった。中村さんは尻尾のように繋がったシールドケーブルをズルズルと引きずり出し、それを束ねて僕に手渡した。
「それは分かりますけど……何に使うんですか?」
「マイクの使い方なんて一つしかねえだろ、音を録んだよ。あー、スタンドは捨てちまったんだっけ? しゃーねえ、ありもんでやるしかねーか」
中村さんは床に散らかしたガラクタの中から、平べったい金属の箱のようなもの(オーディオインターフェースというらしい)と、耳あてがドーナツのように大きなヘッドホンをピックアップして、それらをどんと机の上に置いた。
「あまね、パソコン貸してくれ。ちょいダウンロードするものがある」
「いいけど、ゲストモードで使ってよ」
あまねは椅子に掛けておいたリュックのジッパーを開いてノートパソコンを取り出した。彼女のリュックはお腹を見せた猫の形をしているので、そうしていると本当に猫の背中から荷物を取り出しているように見える。
「えーと、まだサイトあるよな……お、生きてた」
中村さんは手早くブラウザを立ち上げると、検索欄に直接URLを打ち込んでエンターキーを押した。すると、ほとんど一瞬のうちに読み込みが終わり、白背景に黒い文字だけが書かれた簡素なWebサイトが表示された。彼はトラックパッドをかつかつと操作し、青いリンクをクリックして何かのファイルをダウンロードした。
「何かのアプリ、それ?」あまねがパソコンの画面を覗き込んで尋ねる。
「ああ、俺の知り合いが開発した未知言語の解析AI。音声からのな」
中村さんはオーディオインターフェースとパソコンをUSBケーブルで接続して言った。
「なにそれ、すごいじゃん。一人で作ったの? てかそんなことできるの?」
技術的な知識が豊富なあまねは、中村さんの話に興味を持ったようだった。
「ああ、どんな未知の音声の入力に対しても、それが人間の『言語』の定義に当てはまれば一発で翻訳ができるって代物だ。発音も文法も語順もカンケーねえ、そういう理論だからな」
「えー、まじで? すご。理論ってどんな理論?」
ポチポチと圧縮ファイルを解凍していく中村さんに、あまねが興味深そうに尋ねる。普段話していると忘れがちだけど、彼女はこれでIT技術に関しては子供のように純粋無垢な興味を持っているのだ。当然のように僕は置いてけぼりされている。
「人間の言語ってのは無限の音の有限の組み合わせでしかねーから、どんな言語でも必ずパターンがあんだ。既存の言語の会話を膨大にインプットして、同じ意味を持つ発話に共通のパターンを見つけ出せば、未知の言語の入力に対しても自動で翻訳ができるってのがそいつの考えだ。ま、暗号解析の文字頻度分析の応用だな」
「やばー。ねえ、じゃあそれを使えばエルシィが何を言ってるか分かるってこと? 早く早く、動かしてみせてよ」
僕が聞いてもさっぱりな理屈だが、あまねはその意味を理解したようで、ワクワクと目を輝かせながら中村さんを急かした。
「まあ待て、話は最後まで聞け。ぶっちゃけ、これが動くところは俺も見たことねーんだ。なんせ、作ったはいいけど肝心の未知言語の方が見つからずにお蔵入りになっちまったんだからな」
「あはは、なにそれ。めっちゃばかじゃん、その人。何で作る前に分かんなかったのさ、そんなこと」
「作ってから見つければいいとか思ってたらしい。けど地球上にはもう未解明の言語なんて一つも残ってねーから、その理論が正しいのかどうかは本人も含めて誰も知らん。論文にして学会に出したけど査読には落ちて、そいつはしばらく落ち込んでた。……ま、昔の話さ。よし、準備できたぞ」
中村さんはアプリのセットアップを済ませ、ヘッドホンを被ってマイクを僕に手渡した。パソコンの画面には、何やらたくさんの数値パラメータを調整するためのインターフェースと、音声の波形を表示するための黒い画面が表示されている。
「はあ。えーっと……それで結局、僕は何をすればいいんですか?」
さっきから全く話についていけていない僕は、現場に放り出された新人レポーターのようにマイクを手にポカンと彼に尋ねた。
「喋ってもらうんだよ、エリシアに。さっきみたいに言葉を」
「言葉を、って言ったって……何でもいいわけじゃないでしょう?」
未知言語の解析だと言っても、どんな言葉でも翻訳できたらそれこそ『ドラえもん』の『ひみつ道具』だ。まさか、僕の知らないうちに世界がそんなに進んでいたとも思えない。
「何でもいいんだよ。『こんにちは』でも『おはよう』でも、それと対応したパターンの言葉が他の言語にありゃ、確率的に一番高い意味が算出される。そういう理論だ」
「ええ……本当にそんなことできるんですか?」
中村さんの言わんとすることは僕も何となく分かってきたが、そんな魔法みたいなことが本当に可能なのだろうか。僕は半信半疑のまま、手に持ったマイクを隣のエリシアに向けた。僕以上に話においてけぼりの彼女は、自分に向けられたマイクの風防をまたちょこっと指先で触った。
「エリシアちゃん、おしゃべり、おしゃべりですっ」
ヒナタが反対側からジェスチャーを交えながらエリシアを促す。マイクの性能が良いせいなのか、僕やヒナタの声は拾われずにパソコンの画面には何の反応も見られなかった。
「ヒナタ、XX、XXX、XXX?」
エリシアがマイクを指差しながら何かを尋ねる。やっぱり意図が伝わっていないようだった。僕がスマホを見せた時もそうだったけど、彼女にはコンピュータや電子機械についての知識が根本的に欠けているような気がする。まるでそんな物が存在しない場所からやってきたかのように。
「これはね、こうやって使うんですよ! へい、ミュージックスタート!」
ヒナタは僕からマイクを奪ってそのまま両手で握り、『アイドルマスター』の楽曲を歌い始めた。ヒナタは元々の声が高く、女性歌手の楽曲も原曲キーで歌えるので、歌の腕前もかなり高い。ラボのメンバーでカラオケに行った時はいつも一番先に曲を入れる盛り上げ役でもある。
「おいバカ、お前が喋ってどうすんだ。てかうるせえ、でけー声で歌うな!」
歌詞も伴奏もなく、完コピした振り付けと共に歌を歌い始めたヒナタに中村さんがヘッドホンを外しながら文句を言う。入力された音量が大きすぎたせいで、パソコンの画面に表示された波形はほとんど真っ白になっていた。
「あちゃー、ふつーにエラーになってんね、これ」
あまねはアプリに表示されたエラーダイアログをぽちぽちと閉じ、さっき中村さんがやったようにしてアプリを初期化していった。サビ前で邪魔されたヒナタは不服そうに頬を膨らませ、そのままエリシアに向き直った。
「そうだ、エリシアちゃんも何か歌ってくださいよ。外国の歌でもメロディを聞けば何か分かるかもしれません。音楽に国境はありませんからね♪」
冗談なのか本気なのか、ヒナタはマイクをエリシアに手渡した。エリシアは目をぱちぱちとさせて受け取ったマイクをじっと見つめた。それは楽天家のヒナタにしか思い付かないような発想だったが、今に限っては冗談にもなっていなかった。僕たちは未だに彼女が何者なのかの糸口すら掴めずにいるのだ。言葉が通じないのに呑気に歌なんか歌っている場合なんかじゃない。
「あのな、そんなこといきなりできるわけないだろ。それよりもまず……」
僕が呆れながらマイクをエリシアから取り戻そうとした、その時だった。僕たちが集ったその小さな部屋の中に、とても綺麗な歌声が響いた。
「XXX、XXX、XX、XXXXX、XX——」
それはエリシアの歌声だった。エリシアは手に持ったマイクを前にすうっと息を吸い込み、それから何の前触れもなしに歌を歌い始めたのだ。その瞬間、ヒナタは「わあ……」と感嘆の声を上げ、あまねは目を大きく見開いて驚いていた。エリシアはマイクを握ったまま、目を閉じて静かに歌を歌い続けた。僕は自分が言いかけた言葉をすっかり忘れ、歌を歌うエリシアから目が離せなくなった。
「XX、XXXX、XX、XXXX、XX、XXX——」
それは僕たちの言葉ではなく、彼女の言葉で詠われた彼女の歌だった。それがどんな歌詞で、どんな内容を表した歌なのかは分からない。だけど、僕はその川のように流れる言葉の調べの中に、そこに込められた彼女の真心——のようなもの——をはっきりと感じることができた。
それはヒナタが歌ったような現代的なポップスではなく、とても静かで物悲しい旋律のエスニックな独唱歌だった。彼女は深い山に架けられた長い吊り橋を一人で渡るようにゆっくりと、だけどしっかりとそのメロディを奏でていった。それは僕がこれまで一度も耳にしたことのない音楽だった。それはとても綺麗で美しい歌だった。
エリシアの歌は僕にあるイメージを想起させた。僕は目の前に居るはずの彼女の姿をいつの間にか見失い、見たこともない世界の景色の中に居た。そこは冬枯れを間近に控えたとても広い草原で、エリシアはそこにぽつんと置かれた岩の上に一人で座っていた。冠雪した高い山麓から吹き降りた冷たい風が、彼女のとんがり帽子とローブをはたはたと揺らす。彼女はそこで一人で歌を歌っているのだ。
誰に向けて、どんな内容の歌を、どうしてそんな寂しい場所で彼女が歌っているのかは分からない。なぜなら、その想像の中に僕は含まれていないからだ。そこがどこで、彼女が何者で、その強い風がどこに吹き届くのかも僕には分からない。僕はただ無名の存在として、そんな彼女の寂しげな姿を見ていることしかできない。僕の言葉は彼女に届かず、彼女の言葉もまた僕には届かなかった。
歌は、遠く離れたあちらとこちらを繋ぐ橋のように僕たちの間に在った。彼女の歌は僕の心に言いようのない悲しみと郷愁を抱かせた。その歌を聞くまで、僕は自分の中にそんな感情が在ったことさえ忘れていた。僕はそれを表す適当な言葉を知らなかった。それはまるで魔法のような出来事だった。彼女の歌が終わる頃、僕は彼女のことをどうしようもなく好きになっていた。
「わー、すっごーい! エリシアちゃんすっごい歌うまーい!」
しんと降り積もった雪のような静寂を破って、ヒナタがぱちぱちと大きな拍手をエリシアに浴びせた。エリシアは緊張が解けたせいか、マイクを持ったまま顔を少し赤くして恥ずかしそうにペコペコと頭を下げていた。僕は彼女の歌の余韻が冷めないまま、ただぼうっと彼女のはにかんだ横顔を見つめていた。
——銀色の髪に、紅い瞳。とんがり帽子に、黒のローブ。
——その女の子は、誰もがひと目で魔法使いと分かる姿をしていた。
僕はその言葉を再び心の中で唱えた。彼女を見つけた時、僕の中にどこからともなく湧いてきた、とても短いフレーズ。僕の目の前に居る彼女は、今もその言葉通りの姿をしている。僕にはそれが彼女を表すための最も適当な言葉に感じられた。もしそこにもう一言だけ付け足す必要があるのなら、それはきっと——。
「……ともやー、かえってこーい」
ポンという軽い衝撃を胸元に感じ、僕はハッと現実に引き戻された。瞬きをして目の前を見ると、僕をじっと見つめるあまねの姿があった。伸びた手の先には、あの猫の拳があった。
「あ、うん……。それで、解析はどうなった?」
僕はポッと火照った熱を払うように頭を振り、中村さんに目をやった。彼はふうと息を吐き捨て、ぱたんとノートパソコンを閉じた。そして大きく首を振り、ヘッドホンを取り外した。
「……ああ、すぐにエラーになっちまった。歌は会話とは全然違うし、元から学習データには入ってねーからな。どうせ眉唾理論だったんだ、結果は同じだっただろうさ。でも……美しい歌だったな」
中村さんは椅子から立ち上がり、二丁拳銃を抜いたガンマンのように両手でぐっとエリシアにサムズアップした。彼はすっかり力の抜けた穏やかな笑みを浮かべていた。僕はそんな中村さんを見たのは初めてだった。皮肉屋で、いつもニヒルな笑みを浮かべながら、世間に対する含蓄に満ちた言葉ばかりを放つ彼が、そんな手放しの称賛を誰かに向けるのは珍しいことだった。エリシアはそんな彼の意図を受け取ったようで、はにかみながらぐっとサムズアップを返した。
「ねー、ほんとだよ。エルシィ、どうしてそんなに歌がうまいの? 歌詞も伴奏もなしであんなに綺麗に歌えるなんてさ、もしかして、歌い手だったりする?」
「コスだけじゃなく歌まで上手いなんて、完璧な逸材ですっ! 今の時代、演技がちょっと上手いくらいじゃ声優にはなれませんからね。さてさて、報告、連絡、相談と……」
「あ、あのー……」
そんな時、ラボの入り口から小さな声が聞こえてきた。
「こんにちは……。あの、わたし、入っても大丈夫ですか……?」
振り向くと、一人の女の子が半開きの扉の隙間から顔を覗かせていた。黒色の髪に、黒い瞳。少しおかっぱ気味のボブヘアに、グレーのトレーナーと青いジーンズ。小柄な体に大きな肩掛け鞄を下げて、手には黒いサングラスが握られている。自信なさげな口調で僕たちにそう尋ねるのは、ラボの4人目のメンバー、野代ユキだった。
「あ、ユキちゃん、ドンピシャのタイミングですよ。ねえ、今の歌、聞いてました?」
「え? あ、うん。ちょうど着いた時に聞こえ始めたから……」
ユキは体一つ分ほどしかない扉の隙間を通り抜け、後ろ手に静かに閉めた。ヒナタはユキに『こっちおいで』と手招きをした。僕たちと一緒に彼女を振り返ったエリシアも、『誰かしら』という風にユキのことを見つめていた。
「あ、あの、こんにちは。ええっと……」
ユキは鞄の紐をぎゅっと握ったまま、俯きがちにエリシアに挨拶をした。
「エリシアちゃんって言います。今日トモヤさんが連れてきた、どこから来たのか分からない、歌の上手な魔法使いさんですよ♪」
「え、ええ~……? あの、はじめまして、わたしユキって言います。一応、ここのラボのメンバーっていうか……。ただ居るだけっていうか……」
ユキは床を見つめたままもじもじと自己紹介をした。見ているだけで恥ずかしくなるような人見知りっぷりだ。僕を含め、どちらかといえば楽天的でマイペースな性格の人間が集まったこのラボだが、ユキだけはその例外にある。気弱で引っ込み思案、自分の意見を言うことが苦手で、人に流されやすく甘えん坊。まさに典型的な末っ子箱入り娘だ。
「だめです、ユキちゃん。エリシアちゃんに日本語は通じませんよ」
「あ、うう、えーと。ま、まいねーむいず、ゆきのしろ。あいむめんばーおぶ……」
「ざんねん、英語もだめです。エリシアちゃんはエリシア語しか喋れませんから」
「えっ、えっ? なにそれ、ヒナくん、トモくん、どういう設定なの……?」
さっぱり状況を飲み込めないユキはキョロキョロと目を振って僕たちに泣きついた。
「設定も何もないよ。ユキ、あんたと同じ。この子ね、さっきトモヤが駅前で拾ってきたんだよ。なんか一人で困ってたからって。パッと見は外国人っぽいんだけど、どこの国から来たのかも分かんないし、言葉も全然通じないの。だから何とかコミュニケーションを図ろうと色々やってるとこ」
「ええ~……?」
ユキは全く信じられないというような驚きの表情を浮かべながら、手に持ったままだったレイバンのサングラスをコソコソと鞄の内ポケットにしまった。
「エルシィ、あの子はユキ。ゆき、ゆき。あたしたちの友達だよ」
「あまね、ゆき、ゆき、ともだち?」
「そ、友達。あたしたちの中では一番年下だから、あんまりいじめないであげて」
『ともだち』という言葉を聞いたエリシアは何かにぴんと来たようで、持っていたマイクをテーブルの上に置くと、ユキのもとにつかつかと歩いていった。そして『どうすればいいんだろう』と所在なさげにしているユキの手をぎゅっと両手で握って言った。
「わたし、エリシア。ゆき、わたし、ともだち」
「はっ、はいっ」
晴れやかに挨拶するエリシアに、ユキはビクッと固まってしまった。彼女はまるで不思議の世界に落ちていくアリスのように、ぐるぐると目を回して混乱していた。
「あの……でも、どうして歌を歌うことに? すごく綺麗な歌でしたけど……」
「ああ、まあこいつがな。音楽は世界共通だとか言っていきなり歌いだして……」
「ふふ、ボクの言った通りでしたね。さて、デビューの準備を進めましょう。実はついさっき、声優事務所にコネのある友達から返信があって……って、あー!!」
中村さんは得意満面の笑みを浮かべるヒナタの手からスマホを抜き取ると、ポイッとダンボールの山の中に投げ入れた。ヒナタはその後をフリスビードッグのように追い掛けていった。
「大体そんな感じだ。色々と事情を聞き出したいところだが、どうにも手詰まりでな。いくら感性が同じだからつったって、まさか歌で会話ができるわけでもねーしな……」
「あはは……そうなんですね。じゃあ、それ以外にはまだ何も?」
「『分からない』ってことだけはよく分かった。とりあえず現場からは以上だ」
「でも歌で会話なんて素敵ですね。絵ならすごく時間が掛かっちゃいそうだから」
「絵?」
ユキがポツリと言ったその言葉に、そこに居るエリシア以外の全員が反応した。
「絵ならって……それどういう意味だよ?」僕が尋ねる。
「う、うん。ほら、旅の英会話みたいな本って、フレーズの横にそのシーンのイラストが載ってるでしょ。だからこっちの聞きたいことを絵に描いて見せてあげれば、簡単な質問くらいならできるんじゃないかなって、思った……んだけど」
突然、皆の注目を一斉に浴びた彼女はひどく気まずそうにキョロキョロと僕たちの顔を見渡した。そして唖然とする僕たちをよそに、視線を落として申し訳無さそうに呟いた。
「あ、そっか、そうだよね。中村さんやあまねちゃんが居るんだもん、そんな簡単なこともう試してるよね。ごめんね、恥ずかしいこと言って。忘れてね」
「「「「それだ!」」」」
「ええっ!?」
さっきとは一転した雰囲気で全員から指名されたユキはビクッと肩を震わせた。
「そうだよ、言葉が通じないなら絵で会話すればいいんじゃねーか! 何でそんなことに気が付かなかったんだ!」
「さすがユキちゃん、お絵かきが得意じゃないと思いもつかない発想です! やっぱり漫画家さんを目指している人の想像力は違いますね!」
「ほんと、まじで、めっちゃお手柄だよユキ。よしよーし、偉いぞー、ゆきひめちゃん」
「あ、あまねちゃん。その名前で呼ぶのやめてえ……」
あまねはユキを背中からガバッと抱きしめ、蛇のように絡みついて彼女の頭をなでなでと撫でた。ユキはわちゃわちゃと腕を振って形だけの抵抗を見せていたが、すぐにガクッと力なく項垂れてしまった。
「おい、馬鹿なことしてんなよ。それより早く描いてもらおうぜ」
「ちぇっ、つまんないの」
僕はすりすりと頬を擦り付けているあまねのフードを引っ張ってユキから引き剥がした。あまねは名残惜しそうにプイッと呟き、ユキの肩にぽんと手を置いて言った。
「じゃー野代先生。原稿の方、今日中によろしくお願いしますね」
「や、やめてよ。わたし、別に漫画家ってわけじゃないんだから……」
「えー、同じようなもんだって。ユキ、めっちゃ絵うまいじゃん。デビューも間近だねい」
「そんなことないよ……。ほんとに、落書きみたいなものだから……」
あまねのカラッとした称賛の言葉に、ユキは顔を真っ赤にして否定した。本人は謙遜しているつもりだが、僕には嫌味にしか聞こえない。彼女はヒナタと同じくアニメや漫画、2Dアイドルなどが大好きで、暇さえあればタブレットを開いて、キャラクターのイラストを描いている。イラストだけでなく漫画も描いているらしいが、恥ずかしがって一度も見せてもらえたことがない。
「にしても全然思い付かなかったな、絵で会話するとか。よくよく考えりゃ、それしか方法なんてないくらいに思えてきたぜ。まさにコロンブスの卵だな」
「ささ、ユキちゃん、エリシアちゃん。こちらへどーぞ」
中村さんとヒナタは録音機器で散らかった机を片付け、二人の向き合うスペースを作った。ユキは鞄の中から最新のペン付きタブレットを取り出して、机の上に置いた。
「あ……じゃあ、よろしくお願いします」
ユキは駆け出し肖像画家のようにおずおずとエリシアにお辞儀をした。一方、エリシアはこの状況にもまあまあ慣れてきたようで、『次は何が始まるのだろう』とワクワクしながらユキをキラキラと見つめていた。その好奇の瞳に晒されて、ユキはひどく気まずそうに視線を下げた。
「じゃ、まずはあそこで何してたのかを聞いてくれ。アキバには何しに来たのか、どこから来たのか、どうやって来たのか、誰かと来たのか、持ち物はどうなったのか、できる限りのことを詰め込んでくれ。グッラク」
中村さんは、すぐに片手では足りなくなった詰め込み設定でサムズアップを作った。
「いきなりそんなにいっぱい無茶でしょ。どうやって1ページに詰め込むんですか」
「生意気な新人だな。世の中には最終回に3ページしか貰えなかった漫画家も居るんだぞ」
「そんなわけ……」
「描けたよ。これでいい?」
「はやっ!!」
視界の外でカリカリという音が聞こえていたと思ったら、もう漫画が完成していた。
「そりゃねー、『先生』ですから。そこらのパンピーと一緒にしてもらっちゃ困るのよん」
隣に立ったあまねが、自分ごとのように腕を組んで言う。お前は何もしてないだろ!
「どれどれ……。あー、うん……。まあ、悪くはないかな。でもちゃんと1ページにまとめといてね。横じゃなくて縦でね。あとキャラに色つけて」
中村さんはユキのタブレットを覗くと、顎をイジイジしてまた無茶なことを言った。
「じゃ、あと2時間でよろPく」カリカリ。
「できました」
「だから速すぎるって!!」
僕は中村さんから受けたノールックパスを華麗にボレーした。危ない危ない、危うくツッコミ不在の作品になるところだった。気を抜くと、ラボの連中は我先にとボケたがるので、こうやって僕が適宜ツッコんでやらないとバランスが取れない。
「トモヤさん。ユキちゃんは別にボケてませんよ。いつだって本気で生きてるんですっ」
「え……やっぱり雑だった? もっと丁寧に塗った方が良かった?」
「いや、そんなわけないだろ……って」
僕がそうツッコむよりも早く、ユキは出来上がった絵を全消ししてまた一から描き始めた。カツカツというスタイラスペンの擦れる音と共に、コマすら無い白紙の画面にエリシアの漫画が描かれていく。そのまるで魔法のような光景に、僕は言葉を失った。何も言うことがなかった。
「ストップ。そこら辺にしとけ。もうホントにいいから。やめろ」
「あ……はい」
中村さんのシリアスな忠告に、ユキはやっとペンを置いた。気が付くと、ユキのタブレットの中では縦向きで6コマもあるフルカラーの漫画が出来上がっていた。ほんの10分かそこらで描けるようなクオリティのものではなかった。
「え……だめ? そっか……だめか」
『称賛』の次の次くらいの『畏怖』でようやく下車できた僕たちの真顔を、変な風に誤解したのか、ユキは『ガーン』とショックを受けたような顔を浮かべた。
「……まあ、うん。大体、こんな感じかな……。サンキュな、ユキ」
僕は言葉を選びながらユキの手元のタブレットを回転させ、エリシアに見せた。それは中村さんの注文が完璧に反映された見事な1ページ漫画だった。12時ちょうど、広場の時計塔の下に立ってキョロキョロとしているエリシアのイラストに加え、電車やバス、タクシー、徒歩でそこに向かう彼女のイラストが矢印で結ばれている。彼女の隣には点線で囲われた空白の人形があり、荷物が無くなってしまって驚く彼女の一コマもある。
僕は呆れ返った。まったく、こんなにも上手にイラストが描けるというのに、なぜそれが下手だという発想が先に来るのだろう?
「あの、えっと、エリシアさん。ど、どうですか……?」
「XXX! ユキ、XXX!」
そんな僕たちの斜めにズレた反応とは対照的に、エリシアはユキの描いたイラストを見てキラキラと目を輝かせた。彼女はパチパチと手を叩き、ニコニコと笑ってユキの名前を呼んだ。
「あ、エルシィ喜んでるみたい。よかったー、下手とか言われたらユキ泣いちゃうもんね。てか、言われても分かんないから平気か、にゃはは」
「うう、あまねちゃん、ひどいよ。エリシアさんはそんなこと言わないよ……」
「わっかんないよ。直接聞いたわけじゃないんだし、本当は心の中では……」
「そんなあ、言わないでえ」
あまねの意地悪に、ユキは腕を掴んでうるうると目を潤ませた。ガラスのように繊細な心の彼女は、つつくとこうしてすぐヒビが入るので面白い。……見ている分には。
「さあさあ、レッツ・クエスチョンタイムです! エリシアちゃん、見てください。エリシアちゃんはどうやってアキバに来たんですか? 歩きですか? バスですか? 山手線ですか?」
路線で聞いても分かるはずないだろ、という僕の内心のツッコミはさておき、ヒナタはユキの描いた漫画のコマを指差しながら、エリシアに次々と質問をしていく。
「これは駅前の広場です。人がたくさん居る場所です。エリシアちゃんはあそこにどうして居たんですか? 何をしてたんですか? 誰かと待ち合わせをしてたんですか?」
そんなグイグイいくヒナタをスルーして、エリシアは画面の一点を凝視していた。それは最初のコマに描かれた彼女自身だった。エリシアはタブレットから目を上げ、そのコマの端っこに描かれた、カフェから顔を覗かせている僕のイラストを指差した。
「……トモヤ?」
「え? そうだけど、なんで?」
僕が尋ね返すと、エリシアは指を滑らせて今度は時計台の下に立つ自分を指差した。
「……わたし?」
エリシアは自分の顔を指差して言った。僕たちは顔を見合わせた。
「や、やっぱり似てなかったのかなあ? うう、だから言ったのに……」
「んなわけないでしょ、めっちゃよく描けてるって。ほら見て、エルシィ」
ドヨンと落ち込むユキをよそに、あまねはスマホの鏡アプリをエリシアに向けた。すると、エリシアは画面の中に映り込んだ自分自身の姿を見て、ハッと驚いた顔をした。
「わたし……、ユキ……、XXX……、XXXX……?」
エリシアは鏡を手に、自分の顔——特に目——をしきりに触り、その形を確かめていた。まるでそこに映り込んだのが、自分ではない全くの別人であるかのように。
「ね、そっくりでしょ。こんなに可愛いのエルシィ以外にないって」
あまねは「でしょ?」と彼女に同意を求めたが、鏡から顔を上げたエリシアの表情は、ひどく不安に曇っていた。僕はポツリと、ずっと抱いていた疑念を口にした。
「エリシア、もしかして君さ……。自分が誰か分からないの?」
僕の言葉に、中村さんを含めたラボのメンバー全員が「えっ?」と同じ声を上げた。
「え、なにそれ。どーいう意味? てか量産型アイドルの歌詞みたいだし、にゃはっ」
あまねは笑いながら冗談めかそうとした。だが誰もそれにツッコまなかった。
「それって……記憶喪失ってこと?」
勘の良いユキがぼそっと呟く。僕は頷いた。
「はあ? ユキも何言ってんの? そんなことあるわけないでしょ」
あまねが言った台詞を、僕は本当は中村さんの口から聞きたかった。もし彼がそう言ったのであれば、僕はそのバカバカしい想像をすぐにでも捨て去ることができた。だがそんな僕の期待とは裏腹に、中村さんは真剣な表情を浮かべたまま口を開かなかった。あまねはひどくバツが悪そうに、ゴクリと唾を飲み込んでエリシアを見た。
「……ね、違うよね、エルシィ。そんなんじゃないよね?」
「XX、XX……?」
そう言ったあまねの意図は、正しくエリシアには伝わらなかったようだった。
「……そういえば、トモヤさん言ってましたよね。エリシアちゃん、なんでか自分の髪飾りを見て驚いてたって。そう言われると、なんだか急にそんな気がしてきました。つまり、色んなことの辻褄が合うっていうか……」
ヒナタも声のトーンを落として同調した。いつも明るく賑やかで、馬鹿ばかり言っている彼には似合わない物言いだった。そんな僕たちの不和が伝わってしまったのか、エリシアはスマホを持ったまま押し黙ってしまった。あまねはまだ納得がいかない様子だった。
「みんな、まじで言ってんの? 記憶喪失って……漫画じゃないんだからさ。だって『エリシア』って名前はトモヤが直接聞いたんでしょ? 持ち物に書いてあったとかじゃなくて、自分でそう言ったって、あんた言ってたじゃん」
「……書いてあったわけじゃない?」
あまねがポツリと言ったその一言に、中村さんはピクッと面を上げた。
「そうだよ。トモヤが頑張って聞き出したって。ねえ、中村さんも本気でそう思ってるわけじゃないでしょ? 記憶喪失なら、なんで名前だけ覚えてて、他のことは……」
「なら、どうやって書くんだ?『エリシア』って——どんな文字で書くんだ?」
「えっ? どういう……文字で?」
僕は中村さんに言われて『エリシア』というカタカナの形をパッと想像した。
「そうだよ、音が聞き取れなくても、こんだけ珍しい言語なんだ。文字だってきっと普通じゃねえだろ。読めなくたって、文字の形が分かれば調べられるかもしれん。ったく、なんでこんな盲点ばっか踏むんだ俺は、馬鹿か」
中村さんは頭をガリガリと掻いた。確かに彼の言う通りだった。まさか漢字やカタカナでもないだろうけど、文字の形さえ分かればネットで画像検索だってできるはずだ。
「ユキ、ちょっと俺たちの文字を書いてやってくれ。ひらがなでいいから」
「あ、はい。えっと、エリシアさん、これは『ゆき』って読みます。トモくんは……」
ユキは白紙のキャンバスにペンでひらがなを書いていった。エリシアは僕たちを表す文字たちをユキと一緒に指差しながら、それが指し示す人物を確かめていった。
「ゆき、ともや、あまね、ひなた、なかみゅぅら」
「よし。伝わったな。次はエリシアに自分の名前を書いてもらえ」
「ほらエルシィ、名前書いてみ。文字の書き方は覚えてるでしょ?」
あまねはユキからエリシアにペンを渡し、画面をなぞるジェスチャーをした。エリシアはまたこくんと頷き、サラサラとタブレットの上に黒い線を走らせていった。
「いぇ・りぅ・しゅ・うぁ」
エリシアはペン先でつんつんと画面を叩いた。僕たちは一斉に首をひねって、彼女の方からその文字たちを見た。だがすぐに、また反対側に首をひねることになった。
「え、なんだこれ?」
「アルファベットじゃ……なさそうですけど」
「でも筆記体っぽいね。めっちゃ書き慣れてるっぽかったし」
ヒナタの言う通り、それは一見して英語の文字とは違う奇妙な形をしていた。横書きで、カーブを描いた筆致で、スラスラとひと筆書きされているが、それら一つ一つ——たぶん合計で7文字だ——の形や読み方は、全くもって分からなかった。
全体としては、英字より形が角ばっていて、木の枝を交差させて並べたような、どこか幻想的さを感じる文字だった。筆跡は女の子らしく、ところどころ丸みを帯びていて、でも下手なところはなく、見る人が見たらきっと読めるような、整った形をしていた。
「こんなの見たことないよ。そもそもどこがどうエリシアって読むんだ?」
僕はその文字たちを一つ一つ手に指で書き写してみた。7つが7つとも違う形をしていた。7つの文字で4つの音——これでどうやって『エリシア』と読むのだろう。
「……あの、中村さん。この文字、どこかで……」
「……ああ、俺も今そう思ってたところだ。ぜってー見覚えがある。でもどこで……」
そんな僕たちを差し置いて、中村さんとユキはなぜか通じ合った表情を浮かべた。
「わたし、最近これと似たような文字を世界史で習ったような気がするんです」
「世界史? ユキ、お前、今どのへんやってんだ?」
「はい。古代エジプトとかギリシアとか、まだその辺の時代です」
急に頭の良さげな会話を始める二人。僕にはナンノコッチャという話題だ。
「ギリシア? そういや、フェニキア文字やクレタの線文字にも似てるな……ってバカいえ、そんなの未だに使ってるやつ居るかよ。もっと新しいはずだ。もっと……」
中村さんは額をトントンと叩きながら、記憶の引き出しをノックしていた。そして次の瞬間、ハッと目を見開いてパンと大きく手を叩いた。
「そうだ、ルーン文字だ!」
「「「ルーン文字!?」」」
ついに判明した衝撃の事実! 何とエリシアの使う文字はルーン文字だった!
「だよな、ユキ。お前なら知ってるだろ。だって常識だもんな!」
「はい。だけど、メジャーすぎてパッと思い付けませんでした!」
お互いのことをビシッと指差して、うんうんと何度も頷き合う二人。
「……いや、何ですかそれ? どこの国で使われてる文字なんですか?」
当然、そんな言葉を聞いたことも見たこともない僕が、一般人代表として尋ねる。
「あ、えっとね、ルーン文字っていうのは、よく漫画とかアニメに出てくるんだよ。トモくんたちもきっと、何かの作品で見たことがあると思うよ。わりと有名だから……」
ユキは置いてけぼりの僕たち三人にびっくりした様子で、慌てて補足解説を始めた。
「そうなのか? たとえばどんな作品? 歴史系? 僕そういうのあんまり——」
「魔法」
そう答えたのは中村さんだった。彼はただ一言、『魔法』とだけ言った。 魔法? 魔法だって? 今、この人は『魔法』と言ったのか? 僕の聞き間違えなどではなく——?
「つーか、それ以外で見たことはねえな、一度も」
中村さんはゴキゴキと首を鳴らすと、近くにあった本棚の上の方から1冊の本を取り出した。それは紫色の表紙をした、絵本のような薄いハードカバーの本だった。
「ルーン文字は昔のヨーロッパで使われてた文字だが、今は廃れちまってどこでも使われてねえ。そういうのは別に珍しい話でもねーけど、こいつにだけは他の文字たちにはない、ある使い方が残ったんだ。手紙や本を書いたりするのとは違う、特別な目的がな」
「特別な目的って?」
「だから言ったろ。魔法だよ」
中村さんはそう言って本を僕に差し出した。もちろん、話はそこでは終わらなかった。