時刻は午後4時半を少し過ぎた頃。秋葉原駅前交番の構内に、二人の男が訪ねてきた。日勤の佐々木敦警部補はちょうど、落とし物の手続きを終え、書類をファイルにまとめているところだった。
——ガラッ。入口の扉が開く音に目を上げると、そこにはスーツを着たサラリーマンのような二人組が立っていた。
「すみませーん。ちょっとお尋ねしたいことがあるんですがー」
そんなフランクな口調で話し掛けてきたのは、二人組の片方、キツネのように細い目をした金髪の若い男だった。20代の中盤くらいだろうか、顔立ちや肌のハリから、まだ新人らしい雰囲気が漂っている。
一方、もう一人の男は対照的だった。短く刈り上げた黒い髪に、ガサガサと荒れた肌。その男には一見して40代と分かる壮年の雰囲気が漂っていた。少し痩けた頬と無骨な目つきから、佐々木は何となくベテランのボクサーのような印象を受けた。
「はい、なんでしょう?」
佐々木は手にしたファイルを棚にしまうと、カウンター越しに二人を応対した。あと30分ほどで今日の勤務時間は終わる。これが最後の仕事になりそうだと、佐々木は改めて二人の姿を見た。
ダークグレーのスーツに、お揃いの黒いビジネスリュック。ボクサーの方は薄いベージュのトレンチコートも羽織っている。パッと見は外回りの営業マンのコンビにも見えるが、何か妙な雰囲気を感じる。佐々木が抱いたその男たちの第一印象は、あまりいいものとは言えなかった。
「どうぞこちらへ、お座りになってください」
「あ、はい、失礼しまーす」
佐々木に促されて、キツネ目は軽い返事をして中に入ってきた。それはまるで職員室を訪れた中学生のようにフランクな態度だった。ボクサーもその後に続いた。二人はカウンターの前に置かれたパイプ椅子を引いて腰を下ろした。その一瞬、ボクサーがチラリと自分を一瞥したことに佐々木は気付いた。
男は顔の向きは変えず、目線だけを動かして鋭く佐々木を睨みつけた。佐々木は瞼の隙間から覗いたその男の視線に、ひどく嫌な感情を抱いた。それは彼が長い職務生活の中で獲得した、『ある種の人間』を見分けるための実務的なスキルだった。
「どうかされましたか?」
佐々木も内側の席に腰を下ろした。二人の男はなぜか、椅子に座っても背負ったリュックを下ろさなかった。彼らはパイプ椅子の前の方に浅く座りながら、佐々木のことをじっと見つめた。落とし物か、道案内か——何を言うのだろうという佐々木の予想を裏切るように、キツネ目がふいに口を開いた。
「あの、すみません。今日、この辺で魔法使いを見ませんでしたか?」
「は?」
佐々木は思わず素っ頓狂な声を出してしまった。彼は一瞬、何かを聞き間違えたのかと思った。だがそれは聞き間違えなどではなかった。『魔法使いを見ませんでしたか』——この金髪の男は確かにそう言ったのだ。
「お巡りさん、僕たち人を探してるんです。魔法使い……みたいな女の子。あ、でも一応、そういう格好をしてるってだけの話なんですけど。あはは」
「魔法使いみたいな……女の子?」
「あ、はい。でも『みたい』ってだけですよ。えっと分かります? コスプレってやつです。コスプレ」
キツネ目は文字と文字を区切るように『コスプレ』とゆっくりと発音した。まるでそれが佐々木にとって馴染みのない言葉であることを心配するかのように。
「ええ、分かります。でも、コスプレの女の子の人探し……ですか?」
佐々木はキツネ目の話をオウム返しした。改めて言葉にすると、その奇妙さがかえって浮き彫りになった。営業マンのような男たちが、魔法使いのコスプレをした女の子を探している。何だそのおかしな話は、と佐々木は困惑した。
「そうですそうです。よかった、通じて。えーと、なんだったかな。ほら、よくあるじゃないですか。アニメとかでよく魔女が着てる感じの服。山高帽とか、でかいマントみたいなやつ。たぶんそういうの着てて、確か……髪が銀色で、目が赤いのかな? まあ、とにかくそういう見た目のはずなんです。パッと見は普通に外国人っぽくて。で、そういう子、ここに訪ねてきたりしてません?」
キツネ目は記憶を手繰り寄せるように、視線を浮つかせてそれらの特徴を列挙した。人を探しているにしては、やけに曖昧な物言いだ。まるで人づてに耳にしただけのようにも聞こえる。
「ええと……ちょっと待ってください。とんがり帽子を被った、銀髪の外国人?」
——銀色の髪に、紅い瞳。とんがり帽子に、黒のローブ。
その時、佐々木の脳裏に聞き覚えのないフレーズがフッと浮かんだ。
「そうですそうです。結構目立つと思うんですけど。その子、なんか迷子になっちゃってるんですよ。だから早く保護してあげないとまずい感じで」
——その女の子は、誰もがひと目で魔法使いと分かる姿をしていた。
また別のフレーズが佐々木の頭の中に響いた。何だこれは、と佐々木は混乱した。
「その……失礼ですが、お二人はその方と、どういうご関係でいらっしゃる?」
その二つの奇妙なフレーズは、佐々木の脳裏に一つの光景を想起させた。彼は次第に鮮明になっていくそのイメージを振り払うように、事務的な対応を務めた。そうしなければ、彼の意識はその想像に引き込まれてしまいそうだった。
「えーと、それはですね……」
それまでずっと軽い語り口で喋り続けていたキツネ目が、初めて言葉を詰まらせた。男は困ったような顔をして、隣に座ったきり何も言わないボクサーに目をやった。すると、ボクサーはスーツの懐にスッと手を入れ、中から名刺入れを取り出した。それは上質な茶色い革の名刺入れだった。男は1枚の名刺をテーブルの上に置いて言った。
「失礼、申し遅れました。私、鈴木均と申します。こちらは部下の渡辺。私ども、芸能事務所に勤めておりまして、主に外国人のモデルやタレントのマネージメントをさせていただいてます」
「芸能事務所?」
佐々木はその意外な申し出に驚いた。それは彼の想像だにしない言葉だった。差し出された名刺に目をやると、そこにはシンプルな明朝体の文字でこう書かれていた。
『コレクト・エンターテイメント株式会社 ファッション事業部 主任 鈴木均』
「そうそう、そうなんです。僕ら芸能人のマネージャーなんですよ、お巡りさん」
キツネ目も鈴木に倣い、スーツから名刺入れを取り出した。そしてあたふたした手つきで名刺入れの口を開くと、中を探ってテーブルの上に置いた。デザインは鈴木のものと同じで肩書きが無く、名前は『渡辺正』と記されていた。鈴木と渡辺? 随分ありふれた名前だな、と佐々木は思った。
「当方、いわゆる外タレを抱える事務所でして。外タレ、お分かりになります?」
「ええ、まあ。外国人のタレントさん、ですよね? バラエティとかに出てる」
「はい、中でもウチはフリーのファッションモデルのマネージメントを請け負ってまして。日本に住んでる10代から20代の若い外人の子たちに登録してもらって、ファッション誌なんかに紹介するんです。まあ、アルバイトみたいなものですね」
「はあ……アルバイト」
佐々木は話をうまく飲み込めずに相槌を打った。フリーの外国人のファッションモデルを扱う芸能事務所? 一体、それがどうして魔法使いやコスプレと関係するのだろう?
「この業界、未だに外人モデルの需要が高いんですよ。男でも女でも、やっぱり日本人よりスタイルがいいですから。でも王手の事務所を通すと、やっぱりそれなりのお金を取られちゃうんですよね。でしたら、もっとリーズナブルなお値段でより多くのモデルさんをご紹介しますよ、っていうのがウチの会社のサービスなんです。もちろんプロではないので、本物のファッションショーなんには呼ばれませんけど、とりあずガワだけ必要ってお客さんも結構いらして。モデルさんの方でも、興味本位で日本に来たはいいけど、他にマトモな仕事が見つからないって子、実は多いんですよね。ほら、言葉とか喋れないと普通の仕事も厳しいじゃないですか、コンビニとか。でもそういう人たちもモデルならできたりするんですよね。変な話、言われた服を着て黙って立ってるだけでいいので。私たちはその現場のサポート全般を受け持ってるって感じですね」
鈴木はすらすらと淀みなく自身の仕事の内容を説明した。一見、寡黙な印象を受けた佐々木にとって、それはとても意外に感じられた。なんとなく、饒舌なボクサーというのは想像できないからかもしれない。
「それで今日、新人の女の子の仕事がありましてね。アキバで、ゲーム系の案件だったんですけど、その子の担当が渡辺だったんです。だけどこれも新人なもので、私も研修がてらついていったんですよ。ゲームキャラの衣装を着て、プロモーションのための写真を撮るんです。そういうゲームって外人っぽいキャラも結構多いから、かなり重宝されるんですけど——あ、ご存じでした?」
「いえ……そういうのには疎いもんで」
佐々木は鈴木の滔々とした語り口に圧倒されながら空返事をした。ただの警察官である彼に、芸能界やゲーム業界の最新事情など分かるはずもない。
「それで今日その子を現場に連れていったら、何かずっと様子がおかしいんです。仕事内容は一応事前に説明しておいたんですが、なんかソワソワしてて。嫌な予感がしたんですよ。ヨーロッパのどこかの出身らしいんですけど、日本語も英語も怪しくて。私は『大丈夫? ちゃんと話伝わってる?』ってこいつに聞いたんです。でもこいつが自信満々で『大丈夫です』って言うから信用したんですよ。まあそういう子も多いですし、初めてなら外人でも緊張くらいはしますからね。で、とりあえず楽屋に入らせて、私たちはお客さんの方に挨拶に行ってたんです。そしたらしばらくしてメイクの子が来ましてね。『あのう、彼女を見ませんでしたか』って聞くんです。『え、今メイクしてるんじゃないですか』って聞き返しましたら、困った顔をするんですよ。そうしたら今度は衣装さんがやってきて、『彼女、衣装合わせした後にどっか行っちゃいましたよ』って言うんです。私たち『ええ?』って大慌てですよ。スタッフ総出でフロア中探し回ったんですが、見つからなくて。聞き回ったら誰かが『エレベーターに乗って外に行くのを見た』って言うんです。それがちょうどお昼前ですね。そこから二人でアキバの街中駆け回ったんですが、全然見つからなくて。それから現場に戻ってひたすら平謝りですよ。仕事に穴開けて申し訳ありませんって。先方もこういうのに慣れてないみたいで、ディレクターの方が別の日程でってことで許してくれまして。いやホントありがたかったですよね。テレビの生仕事とかだったら、下手すりゃ会社潰れてますからね。ホッとしてたら会社から連絡来て、見つかるまでお前ら帰ってくるなって。それで警察に行くことにしたんです。目立つ格好ですし、ここなら何か分かるんじゃないかって」
鈴木と名乗る男はそこで話をやめ、両手を組んで肘をテーブルについて言った。
「どうです、お巡りさん。そういう子、ここに来ませんでしたか? 見かけたっていう話でも構いません。何か知ってたら教えていただけませんか? 人助けと思って」
鈴木の話を聞いているうちに、佐々木は次第に奇妙な冷静さを取り戻していった。どうしてだろう、と佐々木は思う。この男の語り口には迷いや言い淀みというものが一つもない。話の内容もよく筋が通っていて、耳に心地が良い。芸能関係の事情に疎ければ、『まあ、きっとそういうこともあるんだろう』と納得してしまいそうにもなる。だが、と佐々木は言葉を留める。だが、こいつの言うことは信用できない。本当の話だとは思えない。なぜそう思うのだろう。なぜ……。
「お巡りさん、よくここら辺パトロールとかしてますよね。チラッとでもいいんです。どこに行ったか見てませんか? たぶん、お昼頃なんですけど——広場の方とか」
鈴木の隣で黙っていた渡辺が、困ったような猫なで声で再び会話に入ってきた。渡辺は『困ったなあ』という薄ら笑いを浮かべながら、佐々木のことをチラチラと見た。
佐々木はうんざりした。口では『困った』と言っているのに、この男たちからは深刻さというものが感じられない。むしろ『困っているように見えないと困る』という、作為的な態度さえ感じる。やはり怪しい——佐々木は警察官として冷徹に判断した。
「いや……そういう人は見覚えはありませんね。パトロールはしてましたが……」
佐々木は嘘を吐いた。本当は心当たりはある。お昼頃、駅前広場、魔法使いのような女の子。そんな偶然が一致するはずはない。こいつらが言っているのは間違いなく、あの中原という少年と一緒に居た、エリシアという少女のことだ。佐々木は『魔法使い』という言葉を渡辺の口から聞いた時から、それが彼女のことだと確信していた。
「管区内で保護されたという話も入ってませんね。そもそも行方不明届が出されてなければこちらからお探しすることはできませんし……」
佐々木は事もなくそう言ってのけた。警察官である自分が、人探しに来た市民にのっけから嘘を吐くなど本来はあってはならないことだ。だが、佐々木はそんな原則を曲げてでも、この二人に彼らのことを教えるべきではないと直感した。
佐々木が中原少年から聞いた話は、鈴木と渡辺が語った話と完璧に矛盾する。彼は彼女のことを『リトアニアから来た交換留学生』と言っていた。そして今日はただ秋葉原に遊びに来ただけだとも。まさか、交換留学に来た学生がそんな怪しいバイトに登録するとは思えない。AとB——二つの食い違う話があるなら、そのどちらかは嘘のはずだ。
「ひとまず事情は分かりましたが、そういったトラブルは会社さんの方で解決してもらえませんか。民事不介入といいますか、こちらとしましても、ただの迷子を探すようなことはできませんので」
この二人は何かがおかしい——佐々木は鈴木と渡辺と名乗る二人の男たちに深い疑いの目を向けた。こいつらの話は細部まで行き届いていて、語り口にも真に迫るものがあった。出まかせにしては作り込まれすぎている。だが、それらがもし全て嘘なのだとしたら、こいつらはとんでもない悪党だ。警察官を前に怯えることも反抗することもなく、ただ滔々と平気な顔で嘘を吐き続ける。まさか、そんな人間が居るものか。
「もし本当に行方が分からないようでしたら、とりあえずその方のご家族か保護者に連絡をとってみてくれませんか。行方不明届になりますと、基本的にはご家族の方から出していただくことになりますので」
嫌なモンだ、と佐々木はうんざりした。嘘を吐くのも、嘘を吐かれるのも、人の言葉を嘘と疑わなくてはいけないのも、全部。それが市民の安全を守る警察官としての大切な職務だと分かっていても、割り切れない思いだった。
「うーん、それはちょっと……まずいですよね?」
佐々木が提案すると、渡辺は難色を示し、チラッと鈴木に目配せをした。
「私どもとしましても、こういうことをあまり大事にはしたくないんです。この業界、何よりもイメージが最優先ですから。あそこの会社はタレントの管理もできてない、コンプライアンスも守れないなんて後ろ指差されたら、やっていけないんですよ。ねえ?」
鈴木はやや身を乗り出して言った。その威圧的な物言いに、佐々木は気圧された。
「そうは言われましてもですね……それはそういうルールなんですよ。残念ですが」
佐々木は内心の動揺を見せないように努めて返事をした。
『挑発的言動に乗せられて、失態の口実を与えてはいけない』——彼は上司が作成した職務対応マニュアルの一文を心の中で唱えた。まるで悪魔を祓う呪文のように。
「もしそういう方が国内にいらっしゃらないのであれば、大使館か領事館に連絡してみてください。それからまた、署の方で詳しくお伺いすることになると思います」
佐々木が丁寧に説明すると、鈴木はスッと腰を落として肩をすくめた。まるで『そんなことは分かっている』とでも言いたげに。鈴木はパイプ椅子に深く座りながら、佐々木をじっと見据えた。
「でもねえ……お巡りさん、本当なんですか? その話——」
鈴木はネットリと湿った視線で佐々木を睨めつけた。細めた目、歪んだ頬、結んだ口。佐々木は背中に嫌な汗が流れるのを感じた。それはもはや、疑いというより確信の眼差しだった。俺がこいつの嘘を確信しているように、こいつもまた俺の嘘を確信している。なぜだろう、そんなことが分かるはずもないのに——。
「今日のお昼すぎ、ここらに居たのは間違いないんです。衣装のまま出てっちゃったから、着替えたとも思えない。もう一度よく思い出してください。『銀色の髪に紅い瞳、とんがり帽子に黒のローブ』——そんな『ひと目で魔法使いと分かる姿をした』女の子です。歩いてたら嫌でも目に入ります。見逃すはずなんてありません。私たち、その時間にも一度ここに来てるんですよ。お巡りさん、その時ここに居ませんでしたよね。パトロール中っていう札が表に出てましたもんね?」
鈴木はテーブルに肘をつき、姿勢を低くして佐々木を見上げた。まるで刑事ドラマで取り調べをする悪役刑事のような態度だった。馬鹿な、と佐々木は思った。警察官は俺の方だ。なのになぜこいつは、こんなにも確信に満ちた物言いができるんだ。まさかこいつらは、俺があの二人と話しているところを見ていたとでも言うのか——。
「いや……ですから、事件性があるならお調べしようと申し上げているわけでして。あの、外国人のバイトと仰っていましたが、就労許可証はちゃんと確認されてるんですよね?」
「もちろんです。ウチはちゃんとした会社ですから」
鈴木は澄まし顔で即答した。佐々木はメモ帳を手元に手繰り寄せた。
「……一応、その方のお名前と年齢を伺っても?」
「無理ですね。個人情報ですから」
佐々木の悪い予感は当たったようだった。名前を聞くと、鈴木はすぐさま非協力的な態度になった。個人情報だと? おい、今さら何を言っているのだ。お前らは人探しに来たんじゃなかったのか。クソ野郎が……佐々木は心の中で悪態を吐いた。
「捜査に必要な情報です。名前も分からない方を探すのは無理ですよ。それとも、何か私たちに教えられない理由でもあるんですか?」
警察に人探しに来た人間が情報を出し渋るのはよくある話だ。そういう場合、大抵は居なくなった方ではなく、探している方に後ろ暗い『事情』があることが共通する。
「もちろん、大切なタレントさんですから。そう簡単にはお教えできませんよ」
佐々木は気を引きしめた。あのエリシアという少女は、何か事件に巻き込まれているのかもしれない。仮にこいつらの話が本当だとしても、未成年の外国人をモデルとして働かせているというのは、どうも怪しい話だ。まずは適当な理由で足止めしよう——。
「とりあえず、少しお待ちいただけますか。データベースをお調べしますので」
佐々木が待機場からノートパソコンを持ち出そうと立ち上がった、その時だった。
ガラッ——。表の入口の扉が音を立てて開いた。見ると、そこには制服姿の警官が立っていた。それは夜勤シフトの交代で現れた、彼の部下の黒田聡巡査だった。
「お疲れ様です。佐々木さん、もうすぐ引き継ぎの時間ですが……」
ポリスキャップにブルーのジャケット、警棒に拳銃のホルスター。佐々木と同じく、警察署で装備を整えてきた黒田は、ひと目で警官と分かる姿をしていた。鈴木と渡辺は後ろを振り返って、彼のことをつぶさに観察した。そして最終的に、彼が手に下げたコンビニのビニール袋に目を留めた。
「あ、ああ……。今ちょっと取込み中だから、先に入っててくれ」
佐々木が促すと、黒田はバツが悪そうにビニール袋を後ろ手に隠した。箱詰め5)の前に飲み物でも買ってきたのだろうか。黒田はそのまま三人に軽く会釈をして待機場に入っていった。
「時間だ」
その時、何かの合図を知らせるように、鈴木がポツリと言った。待機場に足を踏み入れかけていた佐々木は、思わず「えっ」という声を上げて後ろを振り返った。
「時間って……何のこと」
その時にはもう、二人の姿は交番内には無かった。いつの間に扉を開けたのだろう。彼らは音もなく椅子から立ち上がり、すでに交番の外の歩道を歩き始めていた。
「あ、ちょっと、あんたたち!」
佐々木は慌てて外に出た。二人のサラリーマンはもう、赤になった横断歩道の向こう側に居た。耳を澄ますと、どこからか防災無線の『ゆうやけこやけ』が聞こえてきた。
「すみませーん、お巡りさーん。お手数をお掛けしましたー。もう大丈夫でーす」
道路の向こうで、渡辺がチラッと振り返って言った。さっきまで浮かべていた、ニコニコとした憎たらしい笑みは消えていた。渡辺はそのままサッと顔を背けた。
「いや、大丈夫って、こっちは……」
——スウッ。佐々木が二人を追い掛けようと車道に足を踏み出した刹那、見慣れないグレーのSUVが、音もなく彼の前を横切っていった。佐々木はゾッとして足を止めた。
(な……なに考えてんだ。まだ赤じゃねえか……)
車が通り過ぎると、二人のマネージャーたちはどこかに消えていた。信号が青になっても、佐々木はその場を動けずにいた。
「何なんです、あれ?」
道端に立ち尽くす佐々木を不思議に思った黒田が、表に出てきて尋ねた。
「芸能事務所のマネージャーだとさ」
「え、外回りの営業マンとかじゃなくてですか?」
「お前もそう思うか?」
「ええ。そうとしか見えませんでしたよ」
佐々木はふいにホッとした気持ちになった。黒田は今年の春に警察学校を卒業したばかりの新人警官だ。佐々木とは二十歳以上も年が離れている。だがどうやら、自分の感性がズレているということもなさそうだ。
「なんか、外国人のモデルが居なくなったとかで探してるんだと。ほら、ここに……」
交番の中に戻り、佐々木は二人が残した名刺を見せようとした。しかし——。
「どこだ、あれ、ないぞ……」
佐々木は床に這いつくばって物陰を探した。だが見つからない。『鈴木均』と『渡辺正』——その嘘くさい名前が書かれた2枚の名刺が、カウンターの上から忽然と消えていた。まるでそんなものなど、初めからここには存在しなかったかのように。
「どうしたんですか?」
「いや、さっき名刺を貰ったはずなんだが、なくなっちまって……」
「持って帰ったんじゃないですか? 芸能界の人間って、そう簡単に名刺とか渡したりしませんよ。変に付きまとわれたりしたら面倒だからって」
なおも探し続ける佐々木に、黒田はあっけらかんと言った。
「馬鹿言うなよ、一旦出した名刺だぞ。そんな失礼なことがあるもんか」
「知りませんよ。俺、自慢じゃないけど外で名刺なんか出したことありませんし」
「そりゃそうだが……」
俺は確かに見たんだ——佐々木は黒田の言葉を渋々ながら受け入れた。彼が床から立ち上がって手を払っていると、黒田がサッとビニール袋から何かを取り出した。
「買ってきましたよ。佐々木さん、コーヒー、甘いのでいいんでしたよね?」
ふっ——。黒田は柔らかに笑いながら佐々木に缶コーヒーを差し出した。佐々木はムスッとぶきっちょ面を浮かべて受け取った。黄色いラベルに黒い縞模様——それは佐々木が好んで飲む『マックスコーヒー』のロング缶だった。
「悪かったな、いい年して。でもこっちの方が美味いだろ、絶対」
カシュッ——。佐々木は缶の蓋を開けてぐびっと一口飲んだ。浅い苦みの中に、たっぷりと含まれたミルクと砂糖の甘さを感じる。やけに体に染みる感じがするのは、さっき変なことで気を揉んだからだろう。
「違いますって。甘いものと一緒に飲むから、苦い方がいいんじゃないですか」
黒田はそう言って『BLACK』と書かれた真っ黒な缶を取り出した。諭すようなその言葉とは裏腹に、彼が買ってきたのは飲み物だけだった。佐々木は暗に子供っぽいと馬鹿にされているような気持ちになった。何だよ、オッサンが甘党だって構わないだろう。
「でも、本当なんですか? さっきの二人が芸能マネージャーだって話」
「さあな。でもそう名乗ってたから、信じないわけにもいかないだろ」
信じないわけにもいかないだろ、と佐々木は自分で言った言葉を反芻した。
「にしても、やけに体格よくなかったですか? 特に、上司っぽい方」
佐々木はそう言われて鈴木の姿を思い出した。どこにでも居そうなサラリーマンの風体をしていたせいか、体格と言われても印象が薄い。そもそも残暑の季節には似合わない長袖のトレンチコートを着ていたせいもある。
「後ろから見ましたけど、あの人、首から肩にかけての筋肉すごかったですよ。僧帽筋のあたりとか。俺、学生時代に格闘技やってたんで、分かるんですよ」
黒田は自分の肩を軽く叩き、即席のファイティングポーズをとってみせた。彼は剛健な身体性が求められる警官の中でも体格がよく、定期的に署内で行われる術科訓練でも良い成績を残していた。
「ジム通いでもしてるんじゃないのか。最近、そういうの流行りだし」
「ジムであんなに鍛えられるかなあ……てか、案外腕っ節が強くないと務まらない仕事なのかもしれませんよ。なんだかんだヤクザな業界ですし」
黒田はそう言ってストレートとフックを素振りした。佐々木はふっと鼻で笑った。
「それこそ昔の話だろ。あいつらも、コンプライアンスがどうとか言ってたし……」
「そんなことないですよ。結局、中身は何も変わってないんですから。同じですよ」
黒田はやけに冷淡な意見を述べた。まあそうか、と佐々木も内心で同意した。
「あ、お疲れ様です、佐々木さん」
そこにもう一人の警官がやってきた。夜勤で黒田とコンビを組む畠中慎太郎巡査部長だった。今年30歳になった大卒の中堅警官で、同じく佐々木の部下でもある。
「署での引き継ぎは何もありませんでしたが、こちらでは何かありますか?」
「ああ、特には」
「そうですか、では引き継ぎますね。お勤めご苦労様でした」
「あ、おい。ちょっと待て畠中、黒田も」
「はい、なんですか?」
佐々木が呼び止めると、二人はポカンとした顔をして振り返った。その純粋な疑問の眼差しで見つめられた途端、佐々木は彼らに語ろうとしたことが急に恥ずかしくなった。
「いや、大したことじゃないんだ。ちょっと勤務中に気になったことがあってな。さっきの二人とも関係してるんだが……でも、俺の気のせいってこともあるし」
「聞きますよ、これから仕事に入るんですから。『事件に大きいも小さいもない』って、課長もよく言ってるじゃないですか」
逡巡する佐々木に畠中は朗らかに言った。佐々木はハッと目が覚めた思いになった。まさか、自分が息子みたいな部下たちから、正義を諭される日が来るなんてな——。
「ああ、そうだったな。すまん」
「で、なんです? 気になったことって?」
「お前ら、魔法使いって見たことあるか?」
「はい?」
開口一番、佐々木が言った言葉に二人は唖然とした。黒田はあんぐりと口を開けたまま缶コーヒーを取り落としそうになり、畠中は目を点にしてパチパチと瞬かせた。
「佐々木さん、いきなり何言ってるんですか?」
「そうですよ、冗談はやめてくださいよ。ていうかオチどこです、それ?」
「ば、ばかやろう、冗談じゃねえ。本気で言ってんだ俺は。つまりだな……」
揃って呆れ顔を浮かべる二人に、佐々木は慌てて取り繕った。彼は一から話を始めた。今日のお昼過ぎ、彼が駅前広場で出会った不思議な少女と少年のこと。さっき尋ねてきた芸能マネージャーを名乗る怪しい二人組の男たちのこと。最初は半信半疑だった黒田たちも、佐々木の物語りを聞くうちに次第に表情を変えていった。
「いやさ、その女の子がさ、どっからどう見ても魔法使いみたいなんだよな、これが」
——銀色の髪に、紅い瞳。とんがり帽子に、黒のローブ。
エリシアという名前の少女を語る時、佐々木は無意識にその言葉を口にしていた。それはまるで何かの呪文のように、彼の意識の澱に長くリフレインし続けた。