佐々木は交番での引き継ぎを終え、警察署への帰り道を歩いていた。駅前交番を所轄する秋葉原警察署は駅の南、神田川に架かる万世橋の交差点の近くにあった。
「あの子たちは……もう居ないみたいだな」
広場を横切る時、佐々木はキョロキョロと辺りを見渡してみた。5時過ぎの駅前広場は昼間よりも往来する人の数が増えていた。しかし、彼らはどれもありふれた格好をしたサラリーマンや観光客たちばかりで、あの特徴的な姿をした魔法使いの女の子はどこにも見られなかった。きっともう帰ったのだろう、と佐々木は思った。
「あー、お姉さん、お姉さん。ちょっといいかな。お話、大丈夫?」
広場の中ほどまで行ったところで、佐々木は編みカゴをぶら下げたメイド服の女の子に出くわした。ティッシュを手渡すその先には、外国人観光客らしい二人組の男が立っている。二人とも、貰ったティッシュを手に興味津々の顔つきをしていた。
「ここ、客引きは禁止だから。どこのお店の人? 店長さんから話聞いてない?」
佐々木がぬっと三人の前に現れると、浮かれていた観光客たちはふっと表情を曇らせた。佐々木は学生時代から長く柔道をやってきたこともあり、日本人の中でも特に体格が良い。小柄な客引きメイドと並ぶと、まさに『大丈夫』な風格だ。そんな大柄な男がポリスジャケットを着て現れれば、大抵の人間は萎縮してしまうものなのだが——。
「えー、何のことですか? お巡りさん、こわーい」
メイド服の少女——と言っても差し支えのない年齢に見える——は佐々木の登場にも全く動じる様子もなく、コテッと首をひねって可愛い声を出した。
「ここ、路上だから。勝手にお客さんに声掛けちゃダメなの。条例でそう決まってるから。ちゃんと守って、ね? ルール破ると罰金とか逮捕とかされちゃうよ」
「違いますよー。だって、わたしティッシュ配ってるだけですもん。ほら、もうすぐ花粉の季節だし、花粉症のご主人様のために、メイドのわたしたちがご奉仕してるんです。ね、そーですよね、ご主人様たち?」
「ハイ、ソウデス」
「ソウソウ、カフンショー、キライ」
分かっているのか怪しいが、少女の言葉に二人組の男も同調した。やれやれ、仕込み済みか——佐々木は心の中で溜息を吐いた。カゴの中に入ったティッシュの裏面には店の名前と『割引』という文字が印刷されている。どう見ても客引き行為ではあるが、その線引はひどく曖昧だ。路上で店の名前の入ったティッシュを無料で配るだけなら、その扱いはグレー。佐々木は大人しく黙るしかなかった。
「そうだ、お巡りさんのご主人様にもお一つどうぞ。はい!」
メイド服の少女は何食わぬ顔で佐々木にもティッシュを手渡した。佐々木は無言でそれを受け取った。これ以上絡んでいても何にもならない。佐々木は説得を諦めた。
「……まあ、ならいいけど。でも、お店に連れてったりしたらダメだからね」
「はあい、りょーかいですっ☆」
少女は目元でピースサインを浮かべてウィンクをした。その腰から耳元には無線機のコードらしき物が伸びている。『何だそれは』と言って問い詰めるわけにもいかないので、佐々木は見ないふりをした。外国人観光客たちは、受け取ったティッシュに書かれた地図を見ながら中央通りの方へ消えていった。
佐々木は広場を後にし、万世橋交差点を目指した。メイドカフェのティッシュを片手に歩道を歩く彼に、すれ違いざまに多くの人々がチラチラと視線を向けた。制服、警棒、無線機、そして拳銃。『サツがこんなとこ歩いてんじゃねえよ』——佐々木の耳には、そんな彼らの心の声が聞こえるてくるようだった。
(昔は、これが嫌で仕方なかったな……)
佐々木は貰ったティッシュを裏返しながら、ふと警察官になった頃の自分を思い出した。『市民の安全を守る正義の味方』——そんな採用ポスターに書かれていた警察官の標語を、彼はもう覚えていない。
地域警察官としての毎日の勤務は地味で泥臭く、繁華街の交番ではより人々から疎まれてばかりだ。彼はそんな欺瞞を受け入れていた。妻と二人の子供、そのささやかな生活も、彼が守るべき安全の中に含まれている。それこそが彼にとっての現実だった。
『メイドカフェあんどバーSORA』と書かれたその広告には、色とりどりの髪の毛と目の色をしたメイド服姿の女の子たちの写真が並んでいた。中には佐々木の高校生の娘と同い年くらいの幼い面持ちの子も居る。佐々木は黒田の言った言葉を反芻し、少女の言葉遊びに言いくるめられた自分を恥じた。
「ヤクザな業界ね……」
佐々木は今年で48歳になる警視庁でも古株の警察官だった。彼は葛飾区で洋品店を営む家に生まれ、3歳下の妹が居た。柔道と喧嘩に明け暮れた区立高校をお情けで出してもらうと、彼は世話になった交番のお巡りさんのツテを頼って警視庁の採用試験を受けた。お世辞にも勉強が得意とは言えなかった彼だが、面接の印象と体格検査の評定が良かったため、晴れて警察官になった。
それから30年、彼は東京各地の警察署を転々としながら、ひたすら地域警察官として働き続けてきた。『警視庁秋葉原警察署地域課 秋葉原駅前交番一係長 佐々木敦警部補』というのが彼の肩書だった。だが一歩警察署を出て、秋葉原の街なかに出れば——。
『——お巡りさん、こわーい』
佐々木はふと、さっきコスプレ少女に言われた言葉を思い出し、鼻で笑った。ふん、あんな小娘に何を言われようと、ちっとも気にならない。てやんでい。こちとら、おめえが親父のふぐりん中に居る時からお巡りやってんだ。ガキがナマ言ってんじゃ……。
「……ん? なんだ、ありゃ」
万世橋交差点で信号待ちをしていると、佐々木はふと、こちら側の歩道に奇妙なものを見つけた。それは犬だった。少し黒っぽいグレーの毛並みに、ぴんと立った三角形の耳。それは鮮やかな黄色の目をした、シベリアン・ハスキーにも似た中型犬だった。
「おいおい、首輪つけてねえじゃねえか、リードも。ったく、どこのどいつだ?」
佐々木は青になった信号を尻目に、くるっと踵を返した。その犬は種類の珍しさや毛並みの良さから、一見して飼い犬であることが明らかだった。だがリードで柱に繋がれたわけでもなく、介助犬を示す衣服も身につけていなかった。その灰色の犬は、まるで野生の狼のような姿で歩道の真ん中に立ち止まり、じっと何かを見つめていた。
「すいません、ちょっと通して。ああお父さん、離れて。危ないですから」
歩道を行き交う人々を脇に避けながら、佐々木はその犬の元へ駆けていった。犬は佐々木のことには気付いていないようで、ピタリとその場を動かなかった。どたどたと革靴の底を鳴らす佐々木に、通行人たちは驚いたような、迷惑そうな視線を向けた。
「チッ、どうしてそんなに平気にしてられんだ……犬がすぐそこに居んだぞ?」
佐々木は彼らに聞こえないようにひとりごちた。彼らはなぜか、佐々木が見ている犬ではなく、駆けてくる佐々木の方ばかりを怪訝な表情で見つめていた。
「ちょっと、どなたか。いらっしゃいませんか? このワンちゃん、誰かの飼い犬でしょう。リードもなしに放し飼いにして、危ないですよ。出てきてください!」
佐々木は往来に向かって叫んだ。すると、人々はハッとしたように目を丸くした。
「あ、犬だ。何でこんなとこに居るんだろう?」
「あれってハスキーじゃない? かわいー、でも放し飼いって危ないよね」
「飼い主どこだよ、マナーがなってないな、ったく」
今さらかよ、と佐々木はごちた。だがそんなことを言っている場合ではない。あれだけ立派な成犬なのだ、子供に噛みついたりしたら怪我の恐れもある。ハスキーは犬種的に狼に近いと聞いたこともある。獰猛な性格だったりしたら大変だ。佐々木は逃さないように、そろりそろりと犬の背中から近づいていった。すると——。
「……!?」
その気配に気付いたのか、それまで身じろぎもせず、じっと路地裏を覗いていたその犬は、ハッと首を左右に激しく振った。そしてすぐ背後に立つ、佐々木の姿を見つけた。
「あ、おい! ちょっと待て、大人しくしろ!」
次の瞬間、犬はひらりと身を翻し、佐々木からダッシュで逃げ出した。まずいと思った時にはもう遅かった。灰色の犬は風のように歩道を遡り、軽快なステップを踏みながら人々の足元を駆け抜けていった。
犬の足に人間が敵うはずもない。だが佐々木はその後を全速力で追い掛けていった。逃げ出した動物を捕まえるのは至難の業だ。保健所か、区役所の土木係にも連絡する必要があるだろう。しかしその前に飼い主くらいは見つけておかなくては——。
「……え?」
俊敏な切り返しで犬が飛び込んだ、路地裏の角を彼が曲がった、その時だった。
「うわあ!」
ゴツン! 彼は思い切り何かとぶつかった。それは目の前で火花が散るほどしたたかな衝突だった。彼は思わず体勢を崩し、その場で尻もちをついた。キイン——。ぼやけた視界の先に、黒い人影らしきものが見える。
「す、すみません。大丈夫でしたか? お怪我はありませんか……って、あれ!?」
佐々木はやおら目に入ってきた見覚えのある人物の顔に、素っ頓狂な声を上げた。
「いてて……。おいおい、何やってるんだよ、アツさん。危ないじゃないか」
その人物は、額をさすりながら痛みに顔をしかめた。黒色の髪に、黒い瞳。ライトグレーのスーツに、モスグリーンのモッズコート。情けなく地面に尻もちをつくその男は、ひと目では現場の新人刑事のようにも見える。だが彼こそ、佐々木や黒田たち秋葉原署の地域警官を一手に束ねる地域課のリーダー、物部一課長その人だった。
「課長、どうしてここに?」
佐々木は慌てて物部に駆け寄り、手を差し出して立ち上がらせた。
「ちょっと本庁の方に用事があってね。きみこそ、もう退勤の時間じゃないの?」
立ち上がりざま、物部は手に持ったスマホの画面をチラッと見て尋ねた。佐々木の身長は180センチ以上あるが、物部は170センチほど。並んで立つと、二人はまるで大人と子供のようだ。だが実際、その関係は全くの反対——物部はまだ32歳という若手でありながら『警部』の階級にあり、16歳差もある佐々木の『年下の上司』であった。
「はい、今戻る途中だったんですが。さっきそこで野良犬を見かけて……課長、こっちに来たはずなんですが、見ませんでしたか?」
「野良犬? そんなの見なかったけど……本当、それ?」
物部はスマホをスーツの懐にしまい、手の埃を払って路地裏を振り返った。佐々木も首を伸ばして覗き込んだ。そこは地図に名前も載っていないような、ただのビルとビルの隙間だった。薄暗い道の向こうには、繁華街の雑踏が見える。途中には薄汚れた室外機や畳まれた段ボールなどが立て掛けられているだけで、犬の姿は見つからなかった。
「ええ、確かにここに入ったはずなんですが……」
佐々木は首を傾げた。路地は短い一本道で、身を隠すスペースも見当たらない。それに、あれだけ立派な犬が正面から走ってきたら、気付かないはずもなさそうだが……。
「ふうん。で、犬って、どんな犬?」
「ちょっと黒っぽい灰色の毛並みをした、ハスキー犬っぽいやつです」
「灰色のハスキー犬……ねえ」
物部は顎に手を当てて小さく呟いた。そして佐々木のことを振り返って言った。
「でも本当に見てないよ。ここに入ったように見えて、別の道に行ったんじゃない?」
そう言われても、佐々木は釈然としない気持ちだった。
「それにしても、ハスキーの野良犬だって? 危ないなあ、飼い犬じゃないの?」
「分かりません。あっちの通りでうろついてるのを見かけて追い掛けてきたんですが、逃げられちまって。首輪もリードもつけてませんでした。ったく、もしそうなら無責任な飼い主が居たもんですね」
「そうだね。でもここでこうしていても仕方ない。署に戻って生安6)にも情報を共有しよう。きみの退勤手続きもあるし……あれ、そういえば牧野くんは一緒じゃないの?」
上司である物部は、日勤で佐々木とコンビを組んでいるはずの、牧野雅人の姿が見えないことに疑問を持ったようだった。
「ああ、あいつは4時半で早上がりしました。ライブがあるとか言って……」
「ライブ? 彼、バンドなんかやってたっけ?」
「いえ、見る方です。何とかっていうアイドルの……」
「えー、聞いてないな、別にいいけど。じゃ、保管庫の鍵開けは誰に頼んだの?」
「田島さんじゃないでしょうか、留置課の」
「後でお礼言っとかなきゃな。ぼくもよく彼にお願いしちゃってるし」
物部はそう言って肩をすくめた。『ぼく』だとさ——佐々木は、物部が見せたその10代の少年のように柔い物言いに、ふっと笑みをこぼした。世代の違いかキャリアの違いか、佐々木の目から見れば、物部はとても本物の警察官には見えなかった。
「アツさん。きみは銃を持っている」
「えっ?」
佐々木は物部が口にした、その奇妙な物言いにポカンとした。下を見ると、彼は西部劇のガンマンのような手の形で、佐々木のホルスターをそっと指差していた。
「さっさと署に戻ろう。そんなもの腰にぶら下げたままじゃ、家には帰れないだろ?」
課長の言う通りだ、と佐々木は思った。
「で、今日は何かあった? 不審者とか、変わったこととか」
——ガチャン。秋葉原署内、拳銃の保管庫。物部は金庫をしっかり施錠すると、振り返って佐々木に尋ねた。佐々木の腰のホルスターは空になり、さっきまで装着されていた彼のニューナンブ・M60リボルバーは、すでに分厚い金庫の扉の向こう側にあった。
「はい。ついさっきなんですが、交番に怪しい二人組の男が来まして」
「怪しい二人組の男?」
物部は佐々木の顔を見て怪訝な顔をした。彼の言いたいことは分かる。
「何で怪しい奴らがわざわざ交番に来たりするんだ? きみが職質でも掛けた?」
「いえ、違います。本当に……向こうから来たんです。わざわざ……」
「へえ……変なこともあるもんだね。それで、何がどうなったの?」
「はい。二人とも芸能事務所のマネージャーと名乗ってました。なんでも若い外国人モデルのバイトを斡旋してるらしくて、その女の子が現場から逃げちゃって困ってるとか」
「ふうん。それのどこが怪しい話なの? あまり警察沙汰とは思えないけど」
「それがですね、何ていうのかな……とにかく怪しい雰囲気の奴らで」
佐々木が言い表すべき言葉に困っていると、物部はクスッと笑った。
「はは、アツさんがそう言うならそうなんだろうね。具体的には?」
「黒髪のボクサーみたいな中年と、金髪のキツネ目の若い奴の二人組で、どっちもスーツを着てました。名刺を貰ったはずなんですが、失くしてしまって。スズキとワタナベと名乗ってました。会社の名前は……何だったかな?」
佐々木はあの名刺に載っていた芸能事務所らしき会社の名前を思い出そうとしたが、ど忘れしてしまって思い出せなかった。
「とにかく、話が胡散臭いんですよ。芸能事務所のことはよく分かりませんが、扱ってるのが10代とか20代の外国人の子らしくて……何か引っ掛かるんです」
「なるほど。売春とか、不法就労とか、そういう疑いがある感じ?」
「分かりません、調べてみないと。でも……どうもマトモな話には思えなくて」
佐々木はイマイチ根拠に欠けると思いながらも物部に報告した。交番は地域の安全を守る重要な拠点であり、日々のパトロールから大きな組織犯罪の芽を見つけ出すこともある。それを周知しているのは他でもない物部本人だった。
「外人モデルの仲介業ね……まあ確かに怪しい響きはあるな。ただのモデルってのじゃなく、外人専門ってのが特にさ。何か契約のトラブルがあっても、有耶無耶にしやすそうだし」
「そう、そうなんです。ですよね、俺もそこが気になってて」
物部は見た目こそ頼りない『優男』だが、その中身は実務に長けた優秀な『リーダー』だった。前任の課長が家庭の事情で休職したタイミングで『課長代理』として彼が署に赴任してきた時、佐々木は『この年で年下かよ』と屈折した思いを抱いた。
警視庁に地方公務員として採用された佐々木たちとは異なり、物部は警察庁に国家公務員として採用された警察官僚——『キャリア組』である。物部はその異動の直前まで、警視庁本部の刑事部捜査一課に所属しており、殺人などの凶悪事件を捜査していた刑事でもあった。そんなエリートが自分たちの警察署に来る——どうせ実地研修を兼ねた『腰掛け』だろう、と佐々木を含めた署内の誰もが思っていた。
だが、そんな偏見は物部の優れた手腕によってすぐに払拭されることになった。彼は赴任早々、それまで暗黙知で運用されていた交番勤務の警察官たちの勤務方針をマニュアル化し、現場にも時折姿を現して実際の指揮を執った。元刑事という異色の経歴のおかげもあって、彼は物事の目の付け所が非常に良く、なおかつ頭の回転も速かった。
彼は警察署の課長席に座る代わり、最新のスマートフォンを片手に外を出歩き、何かあればメッセージや電話を用いて指示を飛ばした。勤続30年のベテランである佐々木さえ、彼の指揮のもと、警察官としてのさらなる成長を実感した。
管区内のトラブルや事件は彼の赴任後に右肩下がりを続け、秋葉原は都内でも有数な治安の良い繁華街へと変貌した。物部は自分の課のみならず、他の部署からも垣根を越えて尊敬を得ており、署内の誰からも『物部さん』と慕われていた。
「必要あれば刑事課の野崎さんにも話を通しておくよ。なにせ、ここらへんそういうグレーな店も結構多いからね。なんちゃらリフレとか、さ」
物部は視線を佐々木の手に移して言った。そこにはさっき彼がメイドの少女から受け取ったポケットティッシュが握られていた。
「あ、違いますよ。これはそういうんじゃ……普通のメイド喫茶です、たぶん」
「はは、分かってるよ。最近はキャッチの子たちも図太いよねえ。ただのバイトなのによくやると思うよ。ぼくなんか、学生時代のバイトはずっと寝てたもの」
「へえ、課長もバイトなんかしてたんですか?」
佐々木は意外に思って尋ねた。物部は現役で東大に合格し、そのままストレートで警察庁に入庁したという筋金入りのエリートだ。そんな彼が『バイト』というのは何だか似合わない。
「出版社でちょっとね。週刊誌の編集部で電話番してたんだ。あとは画像の補正とか校正の手伝いとか。そういう誰でもできる簡単な仕事さ。先輩のコネで紹介してもらったんだけど、楽な割に時給が良くてラッキーだったな。下手すれば今より……」
「まさか、だって課長は官僚でしょう。給料だってもっと多く貰ってなくちゃ」
「だったらいいんだけど。キャリアって言ったってまだ警部だし、きみたちと大して変わらないよ。興味があれば人事院の資料を見てみるといい。1円たりとも違わない僕の給料が載ってるから」
物部は冗談めかしながら言い、電気を消して保管庫を出た。そして扉を閉め、しっかりと外から鍵を掛けた。バタン、ガチャリ——。重い金属製の扉の音が無人の廊下に響く。
「それじゃ、アツさん。今日もお疲れ。ぼくもそろそろ退勤するよ。また明日」
「はい、課長。お疲れ様でした。また明日よろしくお願いします」
佐々木は背を向けた物部に軽く会釈をした。物部は指に嵌めたキーリングをくるくると回しながら手を掲げ、そのままコートのポケットに手を突っ込んで去っていた。彼の後ろ姿が階段に消えようとした時、佐々木はふと言い忘れていたことを思い出した。
「あの、そうだ、課長、すみません……」
「ん、なんだい? まだ何かあるの?」
物部は不思議そうな顔をして佐々木を振り返った。
「課長、変なことお聞きしてもいいですか? さっきの話の続きなんですが……」
「さっき? ああ、その怪しい芸能マネージャーの? いいよ、聞かせてよ」
「その……課長は、魔法使いって見たことありますか?」
「いや、ないけど。アツさん、きみ、それ本気で言ってるの?」
物部は真顔で即答した。佐々木はしまった、と後悔した。いくら職務上の現場報告とはいえ、あまりにも荒唐無稽だったようだ。黒田と畠中に得意げに語った時とは勝手が違う、佐々木は慌てて言葉を選び直した。
「い、いえ、違うんです。だからその、つまり……コスプレです」
「コスプレ?」
物部は全く話が見えないという様子で大きく首を傾げた。
『——そう、コスプレってやつです。コスプレ』
佐々木の脳裏にワタナベの言葉がリフレインする。そう、そのはずだ。見た目が魔法使いに見えたって、まさか本当に魔法が使えるはずもない。あれはただそういう格好をした外国人の女の子だったんだ。佐々木は浮かんだ想像を振り払うように頭を振った。
「すみません、何か変なこと言って。忘れてください、気のせいですから」
「そう? まあいいけど……」
物部は釈然としない様子で言った。まったく、俺もどうかしてる。あの魔法使いの女の子を見てから何か調子が狂ったような感じがする。スズキとワタナベの二人だって、怪しいと言えば怪しいが、さほどのものだっただろうか。あまり人の言葉を疑うもんじゃない、と佐々木は浮ついた意識を引きしめた。
「……あ、そうだ」
そんな佐々木に、今度は物部が思い出したように言った。
「ごめん、アツさん。こっちも聞き忘れたことがあったよ。一つ聞いてもいいかな?」
「は、はい。何でしょう?」
佐々木はハッと気を取り直した。課長は何かに気付いたのかもしれない。俺がうっかり見落としたかもしれない、もっと注目すべき大事なことに……。
「きみが追い掛けてたっていう、灰色の犬のことなんだけどさ……」
緊張の面持ちで言葉の続きを待つ佐々木に、物部はスッと指を立てて尋ねた。
「雄だった? それとも雌だった?」
「えっ?」
そのひどく呑気な問い掛けに、佐々木は思わず間抜けな声を出してしまった。犬? あの灰色の犬が——雄か雌かだって? 一体、課長は何の話をしているのだろう。そう言われて、佐々木は改めてあの犬の姿を思い返してみた。万世橋交差点の駅側の歩道、その雑踏の足元に紛れていた、灰色の毛並みをしたハスキー犬。彼——もしくは彼女——はじっと道の真ん中に立ち、黄色い瞳でビルとビルの隙間を覗き込んでいた。あの犬はあそこで何をしていたのだろう? そしてどこに消えてしまったのだろう?
「すみません、分かりません。何しろ犬コロですし、見ただけじゃちょっと」
佐々木は恐縮して答えた。すると物部はふっと表情を緩めた。
「だよね。ごめんね、変なこと聞いて。ちょっと気になっただけだから」
そう言って物部は階段をこつこつと下っていった。我が上司ながら変わった人だ、と佐々木はしみじみ思った。こうして彼と話していると、ふとお互いの言葉が通じていないように感じる瞬間がある。立場が違うせいか、見ている景色も違うのかもしれない。ただ単に頭の出来が違うだけなのかもしれない。
「だけど……雄か雌かなんて、この際、カンケーあるか?」
佐々木はその場でしげしげと腕を組んで物部が言った言葉の真意を考えてみた。だがさっぱり分からずにすぐに諦めた。彼は同じフロアにある更衣室に向かい、制服を脱いで私服に着替えて退勤した。ポロシャツに安物のスーツパンツという装いに衣替えした彼の姿は、もう警察官には見えなかった。
佐々木は山手線で日暮里まで上り、京成線に乗り換えて柴又の自宅へと帰宅した。不思議なことに、夕方の通勤ラッシュの時間帯にもかかわらず、彼の乗った車両はどれもガラガラだった。途中、隅田川を渡る車窓の向こうに千住大橋の立派なアーチ橋梁が見えた。やれやれ、毎日こんな風なら電車通勤も悪くないんだけどな、と佐々木は思った。