中村さんの家の郵便ポストに鍵を投函して表に下りると、ちょうどカムパネルラのキョウコさんがシャッターを下ろしているところだった。彼女は階段から下りてきた僕たちに気が付くと、エプロンで手を拭いて僕たちに会釈をした。
「あら、こんばんは。あなたたち、中村くんのお友達ね?」
近くで見るキョウコさんは僕より少しだけ背が低く、その年代の女性にしてはとてもスリムな体型をしていた。見た目は60代中盤くらいで、細い金色のフレームの眼鏡を掛けた上品な顔立ちをしている。少しパーマの掛かったショートカットの髪は、遠目に見たよりもずっと真っ白で、ショーウィンドウから漏れる明かりに照らされて微かに金色の輪郭を描いていた。
「え……あ、はい。そうです、こんばんは」
僕は急に声を掛けられたことに加えて、『中村くんのお友達』という言葉が彼女の口から飛び出てきたことに驚いた。中村くん? 随分と親しげな呼び方だ。彼とこの人では親子ほども年が離れているように見えるけど、そんなに仲の良い間柄なのだろうか。
「中村くんはどうしたの? さっき出ていったところを見かけたけど、まだ戻ってきてないわよねえ」
キョウコさんは振り返って路地の入口を見た。突き当りの道路を車や通行人がまばらに横切っていくが、そこに彼の姿は無い。僕の後ろではエリシアを含め、ラボのメンバーたちが不思議そうに僕とキョウコさんの会話を見守っていた。
「なんか、さっきいきなり出ていっちゃったんですよ。『今日は帰らないと思う』とか言って……」
「あら、また? 本当に困った人ね、いつまでも子供なんだから。あなたたちの方がよっぽどしっかりしているように見えるわ。ええと……」
「トモヤです。中原トモヤ」僕は改めてフルネームで自己紹介した。
「そう、はじめまして。私の名前はキョウコ。鐘響子と言います」
「ショウ?」僕はその聞き慣れない名字に思わず聞き返してしまった。
「そう。鐘楼の『しょう』に、響く子と書いて『きょうこ』。珍しい名字でしょう? だから自分のお店の名前にも付けたの。『カムパネルラ』って」
キョウコさんはそう言ってベルのイラストが描かれたカフェの看板を指差した。
「どう意味なんですか?」
「イタリア語よ。『小さな鐘』という意味なの。ただの鐘じゃなくて『小さな鐘』——だからこれはそう、ダブルミーニングってやつね」
キョコさんはそう言って控えめなピースサインを作り、にこやかに微笑んだ。僕は一瞬その意味が分からなかったが、『小』も『鐘』も音読みでは『しょう』と読むことを掛けているのだろう。なんだか見た目より若々しいお婆さんだ。
「今の文字遣いでは『カンパネッラ』と書き表すのだけど、私はこっちの古い書き方を気に入ってるの。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に出てくるキャラクターの名前でもあるから。トモヤくん、あなたは読んだことある?」
「いえ……聞いたことはありますけど。『注文の多い料理店』なら知ってます」
「ふふ。そっちも面白いお話よね。とても素敵なお話だから、ぜひ読むことをおすすめするわ。みなさんにもね」
キョウコさんはそう言って、僕の後ろにたむろした4人にパチッとウィンクをした。すると、エリシア以外の3人はコソコソと『誰か何か言えよ』的な目配せをしながら、結局、誰も返事をしなかった。やれやれ。ラボの中ではとことんフリーダムな連中だが、こうして知らない人と顔を合わせると、急に借りてきた猫みたいに大人しくなってしまうのだ。
「こんにちは。わたし、エリシア。トモヤ、ともだち」
そんな3人とは対照的に、エリシアは礼儀正しくキョウコさんに挨拶をした。いつの間に覚えたのか、それはぺこりと会釈を混ぜた立派な日本式の挨拶だった。
「こんにちは、私はキョウコと言います。あら? エリシアさん、あなた……」
キョウコさんはエリシアに丁寧に会釈を返し、それから改めて彼女の姿を見てハッと驚いたような顔をした。今は魔法使いの格好はしていないとはいえ、やはりキョウコさんの目にもエリシアは珍しく映るのだろう。
「……とても綺麗な目をしているのねえ。何だかまるで輝いて見えるわ、素敵よ」
キョウコさんはふっと頬を緩めて柔らかな笑みを浮かべた。エリシアは『?』という疑問の表情をして首を傾げた。僕は変な誤解が生まれなかったことにホッとした。まるで久しぶりに会う祖母と孫娘の対面を見ているような微笑ましい光景だ。
「……てか、本当に光ってない?」
ぱちぱちと瞬きするエリシアを見て、あまねがそんなことを呟いた。
「え? あ、ほんとだ……」
僕たちは揃って目を丸くした。さっきまで明るい場所に居たせいで分からなかったが、エリシアの両目は暗闇の中でほのかに発光していた。それは宝石のようなヴィヴィッドな煌めきではなく、夏の夜の蛍のようにぼんやりとした、穏やかな紅色だった。
「XXX、XXXX?」
そんな僕たちの反応に不安になったのか、エリシアはキョロキョロと顔色を窺った。
「……もう遅いから、あなたたちも早くお帰りなさい。お父さんやお母さんたちが心配してしまうわ。中村くんのことは放っておいて平気よ。あの人は昔からああなの。きっとそのうち、ふらっと戻ってくるでしょうから」
キョウコさんは閉じかけていたシャッターをガラガラと下ろして言った。
「さようなら、トモヤくん。またお話しましょうね。みなさんも。コーヒーをご馳走するわ。もちろん、マキアートでもラテでもオッケーよ」
キョウコさんは手で丸のハンドサインを作りウィンクをした。僕とは祖母ほども年の離れた人だけど、やっぱり感性が若く感じられる。僕はメンバーを代表して別れの挨拶をし、そのまま路地を抜けてラボを後にした。
「……てかさ。トモヤ、なんであのおばーちゃんとあんなに仲いいの?」
駅へ向かう道すがら、あまねが僕の腕を肘でつついた。彼女はクロスバイクを手で押しながら僕たちの先頭を歩いていた。
「仲いいって……ちゃんと話したのは今日が初めてだよ。今まで何度か顔合わせたことはあったけどさ。お前だってそうだろ?」
「だったらなおさらじゃん。あんなに年の離れた人と初対面で話すなんて、フツー無理だって。共通の話題とかないし。もしかして、トモヤっておばさまキラー?」
「アホか、お前らが猫かぶりすぎなんだよ。てかちゃんと挨拶くらいしろよ。失礼だろ、なんで外国人のエリシアの方がしっかりしてるんだよ」
「うう、だって。知らない人と話すのって怖いもん。色々聞かれたりするし、変なこと言われそうでさ……」
僕たちの後ろをついてきているユキが、幼稚園児のようなことを言い出す。
「なんでだよ、普通に高校生だって言えばいいだろ。本当のことなんだしさ」
僕は呆れながらユキを振り返った。基本、ニートとフリーターの集まりである中村ラボの中において、ユキだけは毎日、高校に通っている本物の高校生だった。
「でもさ……。わたしの行ってる高校、普通とはちょっと違うから……」
ユキは僕とは目を合わさずに、とぼとぼとした歩調で歩く地面の先を見ていた。
「……通信制だって高校は高校だろ。傍から見ればそんなの……同じだろ」
「あ、ごめんね。そういう意味じゃないの。わたしはただ……」
僕の言葉が嫌味っぽく聞こえたのか、ユキはあたふたと言葉を詰まらせた。
「ま、確かにフツーではないよね。あんなお嬢様学校、辞めないって。フツーは」
僕とは反対にひどくあっけらかんと言うあまねに、ユキはふっと表情を曇らせた。その微妙な変化を感じ取った僕は、ムッとしながらあまねの腕を肘で突き返した。あまねは何か言いたげに僕を睨み返したが、結局何も言わなかった。
「……お嬢様とか、そういうのじゃないよ。わたしはただ……」
ユキは今年の春まで、都内にある私立の中高一貫女子校に通っていた。そこは東京に暮らす子女であれば誰もが憧れる有名私大の附属中高で、田舎者の僕ですら名前を知っているくらいのお嬢様学校だった。だが、彼女はその高等部への進学を自主的に断り、中等部の卒業を境に御茶ノ水にある通信制高校に転出していた。
その詳しい理由を僕は知らない。数か月前に彼女と初めて会った時、「なんとなく、馴染めなかったから」と寂しげに言っていたことだけを覚えている。僕が自分も似たような境遇であることを語ると、彼女は少しの逡巡の後、「そうなんだね」と言った。
「ボクはユキちゃんの気持ち、少しだけ分かります。別に大したことじゃないんですけど、変に興味を持たれると重いことってあるんですよ。色々と」
ユキの隣を歩くヒナタが優しい言葉で彼女をフォローした。ラボを出たヒナタは金髪のツインテールを大きめのキャスケット帽に収納し、上着にはゆったりとしたフリースを羽織っていた。カラコンやアクセサリーはすでに外されていて、少し茶色っぽいヒナタの本来の瞳の色が現れている。スカートはそのままだが、背負っている小振りなリュックを含めて、メイド成分はほとんどゼロに希釈されていた。
「拙者たち、普段は世を忍ぶ仮の姿をしていますゆえ。にんにん」
ヒナタはそう言って『忍者ハットリくん』のような印を結んで見せた。非常識なコスプレオタクのように見えるヒナタも、バイト以外で外を歩く時はそんな風にあまり目立たないような格好をしている。
「まー流石に、エルシィもあのカッコのまま電車に乗せるわけにもいかないしね」
「ですです。それはだめなのです。みんなびっくりしちゃうのです」
エリシアのとんがり帽子とローブは今、あまねが貸してあげた猫柄のエコバッグに詰め込まれている。そうして鞄を肩に掛けて道を歩く今のエリシアは、ただのお洒落な外国人のようにしか見えなかった。ただ一つ、彼女のうっすらと光る紅い瞳を除いては。
「ねー、エルシィって猫の仲間なんじゃない? 動物の目って夜でも光って見えるし」
「だったら何なんだよ。また警察が来たら『でっかい猫です』とでも言うのか?」
「あはは、それおもろい。そしたらエルシィにも『にゃー』って鳴いてもらう」
あまねは自転車を押しながら、器用に両手をパチパチと叩きながら笑った。
「あまねちゃん、もしまたお巡りさんに捕まっちゃったら、今度こそどこかに連れてかれちゃうよ。せめて、もうちょっと目立たなければいいんだけど……」
ユキは何かを思い付いたように自分のバッグに手を入れ、革の眼鏡ケースを取り出した。そしてパカッと口を開いて中からサングラスを取り出した。それは彼女がラボに来た時に手にしていた、レイバンのティアドロップだった。
「エリシアさん、これ貸してあげる。目立たないように、つけてた方がいいよ」
「XXXXX?」
「おお~、エルシィめっちゃ似合う。海外のセレブみたい」
サングラス姿のエリシアを見て、あまねが感嘆の声を上げる。銀色の髪に、黒いレイバン。そんな彼女はまるで、ファッション雑誌の表紙を飾るクールなモデルのようだった。
「ていうか……ユキ、何でこんなの持ってるんだ?」
「え? それはその……。色々と使うことがあるから……?」
僕のふとした疑問に、ユキは口をもごもごとさせた。同じように、年中ビーチサンダルを履いている中村さんの影響でも受けたのだろうか。
「……? トモヤ? ユキ?」
「あれ、もしかして全然見えてない?」
サングラスを掛けたエリシアは、その場で立ち止まってオロオロと手を動かした。どうやら、遮光性が高すぎて暗い場所ではまともに周りが見えないらしい。
「ま、まあ……服と違って遠目からは目立たないから平気かな……」
ユキはエリシアの肩をそっと叩いてサングラスを外してあげた。夜の海のように黒いレンズの下から彼女の本来の明るい瞳が現れる。やっぱりこっちの方が綺麗だ、と僕が見惚れていると、あまねが何か言いたげにじっと見つめてきた。
「何だよ、何か用か?」
「別に。トモヤって、ほんと見たまんまの顔してるなって思っただけ」
あまねはそう言ってぷいっと顔を背け、再び自転車を転がして進み始めた。
「見たまんまの顔?」
僕は自分の顔を手でペタペタと触ってみた。それを見たエリシアはおかしそうにクスッと笑った。僕は何となく、ユキからサングラスを借りて自分でも掛けてみた。
「あはは、トモくん何か変な感じ。ハリウッド映画のスパイみたい」
暗い視界の向こうでユキの楽しげな声が聞こえる。確かに見えにくいが、全く見えないというほどでもない。よく分からないが、エリシアの見え方とは違うのだろう。暗闇に目が慣れると、外した後も元の明るさは少し眩しく感じた。
「サングラスに帽子っていうとアニメとかでは変装の定番ですけど、怪しさ満点で逆にバレバレっていうのもお約束ですよね。ユキちゃん、もしかしていつもこれつけて学校通ってるんですか?」
「え!? ま、まさか。そんなわけないじゃんよ。あはは、あはは……」
サングラスをケースにしまいながら、ユキはギクッという擬音が目に見えるようなうろたえ方をした。
「ユキちゃんって……見かけによらず目立ちたがり屋さんなんですね?」
「ち、違うよ、ヒナくん。あ、変なとこ想像しないで、恥ずかしいからあ」
ユキはニヤッと不敵な笑みを浮かべるヒナタの腕を掴んで顔を真っ赤にした。そんな二人を横目に見ながら、僕はサングラスをつけたまま教室に入っていくユキの奇妙な姿を想像した。あるいは、教室に入るまでのどこかでサングラスをそっと外して鞄にしまう場面を想像した。だけどそれはあまりにも面白くない想像だった。
「これはね、ハワイに行った時に空港で買ったの。太陽が眩しかったから……」
ユキは鞄をぎゅっと脇に挟んで言った。彼女をからかったヒナタは、ふっとした笑みを浮かべながらも、それ以上は何も問わなかった。僕の隣で、あまねがチラッと視線を僕に向けたのが分かった。僕はそれに気付かないふりをして歩を進めた。エリシアはさっぱり何も分かっていない様子で、ニコニコと二人を眺めていた。
ユキを見ていると時々、僕は以前の僕自身を見ているようでひどく憂鬱になった。私服姿で大きな鞄を肩に下げて東京の街を歩く彼女の姿はどこか虚ろで、瞬きをした間にパッと消えてしまいそうなほど存在が希薄に見えた。
それは僕が彼女と同じような境遇にあるからなのかもしれないし、誰の目にも——たとえばあの佐々木という警官の目にも——そう見えるのかもしれない。だけど僕には時折、目には見えるはずのない彼女の悲しみが、虚ろな色で彼女の体を包んでいるのが見えることがあった。ユキがみんなと話をしている時、彼女が言葉の裏に隠した本来の叫び——のようなもの——が重なって聞こえることもあった。
僕は彼女に一言、『分かる』と言ってあげたかった。自分と同じ悲しみを持った一人の人間がここに居ると、そう教えてやりたかった。でもできなかった。なぜなら僕と彼女は違う人間だからだ。違う場所で生まれ、違う境遇を生き、違う問題を抱えてここに居る。あまねやヒナタ、中村さんだってそうだ。似ているように見えるのは、それを表す言葉が足りないからだ。僕たちを一括りにできる言葉はどこにも無い。僕たちは違う種類の人間だ。だから違う文字たちで表されるべきなのだ。きっと——。
秋葉原駅に着いた僕たちはそのまま改札前で解散することになった。ヒナタはこのまま駅前で夜シフトのバイトに向かい、ユキは地下鉄で仕事帰りの父親と落ち合って帰宅すると言った。僕とエリシアは総武線でマンションのある三鷹に向かうことになった。
「ねえ、トモヤ」
エリシアと一緒に改札をくぐろうとした時、後ろからあまねが僕を呼んだ。振り返ると、彼女は自転車から降りたまま、広場の方から僕たちを遠目に見つめていた。
「何だよ、まだ何か用があるのか?」
僕とエリシアは踵を返し、来た道をあまねの方へと戻っていった。
「いや、別に用ってわけじゃないんだけど。もうちょい歩かない? トモヤんちって三鷹でしょ? 総武線なら浅草橋から乗っても同じじゃん。だからさ……」
あまねは珍しく歯にものを着せたような言い方をした。僕はエリシアと顔を見合わせた。別に早く帰りたい用事があるわけでもないし、まだ遅いという時間でもない。何か話したいことでもあるのだろうか。そんなことを考えていると、あまねはくるっとハンドルを回してタイヤを転がし始めた。僕たちはそんな彼女の後をついていくしかなかった。
僕たちは広場を南に下り、ラジオ会館前の路地を抜けて万世橋交差点を左に曲がった。広場の近くの交番を横切る時、僕は先を行く二人に遅れて赤信号に捕まってしまった。向こう側で『あっかんべー』をするあまねに呆れていると、横の交番から警官が出てきた。
「どうしたの? もう遅いから、ちゃんと家に帰りなよ」
幸い、それはあの佐々木という警官ではなかった。大学生くらいに見えるその若い男性警官は、ひとり歩道に立つ僕を見つけると、そんなくだらないことを言った。
「今から帰るところです」
「そう。気を付けてね」
「はい」
警察署を通り過ぎ、JRの高架下を抜けると、首都高下の広い道路へと出た。歩道橋を渡り、神田川沿いの遊歩道に入った所で、あまねがポツリと言った。
「トモヤの部屋ってさ……どんな感じ?」
「どんな感じ? どんな感じって……いきなり言われてもな」
宵闇にとっぷり沈んだ神田川の水面には、古風な屋形船が縄で係留されていた。平日の夜だからか、明かりが点いている船は一艘も見当たらなかった。日が暮れて冷え込んだ空気が川面を吹き抜けていき、僕たちの服をハタハタと揺らした。
「えー、何かあるでしょ。家具とか、間取りとかさ。トモヤ、もう半年もそこで一人で暮らしてるんでしょ? どんな部屋なのか、ちょっとは気になるじゃん」
あまねは自転車に跨ることなく、ノロノロと車輪を転がしながら振り返った。
「まあ……普通のワンルームだよ。キッチンがあって、洗面所と風呂があって、リビングがある。言っても20年以上前のマンションだし、ボロいとこは普通にボロいよ。こすっても落ちない水垢とか結構あるし」
「えー、ちゃんと掃除してる? エルシィ、がっかりして逃げ出したりしない?」
僕が答えると、あまねは茶化したように大げさに笑った。川面には街の明かりがきらびやかに映し出されていたが、川沿いの道を歩いているのは僕たちだけだった。
「洗濯とかどーしてんの? 毎日してる? てか洗濯機とかあるの?」
「そりゃな。一人だし、何日かに1回するだけだけど、ちゃんとしてるよ」
「それってドラム式? 乾燥機はついてる? 浴室乾燥機とかある?」
「ただの縦置きのやつだよ。乾燥機はついてない。すっげー古いやつだよ」
「じゃあ、洗剤とか自動投入してくれないんだ。自分でジャーってするの?」
「むしろそれ以外のやり方を知らないけどな。一人分だし、何も困らないよ」
「へー、トモヤって家事とか意外に得意なタイプ? そうは見えないけどなー」
「悪かったな。でも誰だってやるようになるんだよ。一人で暮らすってなったらさ」
「そうなんだ。じゃあ服とかどこで干してんの? 部屋干しじゃ匂わない?」
「ベランダがあるからそこに干してるよ。ていうかさ、何の話なんだよ?」
帰りを引き止めてまで誘ったというのに、あまねはそんな取り留めのないことばかりを僕に尋ねた。隣を歩くエリシアは困ったような顔をしっぱなしだった。言葉が通じないのだから仕方がないが、彼女を置いてけぼりにするのは忍びなかった。
「そりゃ、エルシィの服とかも洗ってあげなきゃってことでしょ。汗かいた服、そのまま次の日も着てたら嫌じゃん。夜のうちに洗濯して干して……まだ暑いし、朝になったら乾いてたらいいけど」
「はあ? 何だよそれ。こんなとこまで連れてきて母ちゃんみたいなこと言うなよ」
「はあ? なにその失礼な言い方。あのねー、あんたに一応教えといてあげるけど、ブラとかパンツとかって外に干しちゃダメなんだからね。ちゃんと部屋用の物干しで、外から見えないところに干すんだからね」
あまねはムッと眉をひそめながら言った。彼女が何の前触れなく口にした『ブラ』と『パンツ』という言葉の生々しさに、僕はドキッと心臓が跳ね上がった。
「わ、分かってるよ、そんなこと。てかそんなリアルな話すんなよ。別にこれから一緒に住むってわけじゃないんだからさ。今晩、一晩だけって話だろ……」
横目でエリシアを見ると、エリシアは『何のこと?』という顔をしていた。
「リアルっていうか、リアルの話でしょ。まーでも……いいな。一人暮らしって」
あまねは前を向き、東の空を見上げて言った。都会の街明かりで星はほとんど見えないが、その代わり夜空に高くそびえ立つ東京スカイツリーが見える。青いイルミネーションに包まれた高い塔は煌々と僕たちの道を照らしていた。
「あーあ。あたしもあんな家、早く18になって出てきたいってのに。好きでもない人間と一緒の家に暮らすなんて、ほんとまじ最悪。寝ても覚めてもあたし一人、帰っても誰も居ないなんてサイコーじゃん。あー、うらやまー」
あまねは溜息交じりに僕に羨望の眼差しを向けた。何と言えばいいのか分からなかったので、僕は黙って首筋を掻いた。出会ってからこの方、あまねはよくこうして僕のことを羨ましがってきた。
進路に関する兄との取り決め以降も、あまねと両親の仲は険悪なままで、日々ロクに会話をすることもないと彼女は語っていた。そんな彼女の目には、同い年で一人暮らしをしている僕の姿が、とても恵まれているように映るのだろう。
「好きな時に寝て、好きな時に起きて、ずっとパソコンいじってても怒られないなんてさ、リアルに夢みたいじゃん。ゲームもやり放題だし、にゃはは」
彼女はけらけらと笑いながら言った。望むなら代わってやったっていいさ、と僕は思った。でもそれを口にすることはなかった。
僕の直面する僕の現実は、彼女の無邪気な想像とは掛け離れた場所に在る。それはどんな言葉でも言い表せないし、どんな文字でも書き記せない。それが本当に意味するところが彼女に伝わることはない。僕はまた黙って首筋を掻いた。
「ねー、トモヤだってそうでしょ? エッチなサイトとか見てても親バレすることないんだし、本心ではめっちゃ嬉しいじゃない? うり、本音を言ってみ?」
「あのな、僕が一人で意気揚々とエロサイトを見てることを前提に話を進めるな。あと女がそういう話を軽々しくすんなよ、反応に困るっていうかさ……」
「隠すな、隠すな。あたし知ってるんだし、男ってみんなそうだってこと」
「アホ、分かってるならわざわざ言うなよ。なんで僕が全男子を代表して犠牲にならなきゃいけないんだよ。そういう話はヒナタとしろよ。あいつ下ネタ大好きだし」
僕は平静を装いながら心の内はドキドキしっぱなしだった。こいつはともかく、僕の隣にはエリシアが居るのだ。彼女は目を疑うような美少女で、これから僕の家に泊まるのだ。さっきは『お泊りは絶対許さん』みたいなこと言ってたくせに、なんで今になってわざわざ変に意識させるようなことを言うのだろう。
「にゃはは。よかったよかった、トモヤもフツーの男子でさ。ヒナタみたいに2次元美少女にガチ恋してリアルに帰ってこなくなったらそれはそれでヤバいし。てか、あいつ普段どんな生活してだろ。ね、今度バイト先に遊びに行ってみない?」
あまねは片手で腿を叩いて笑って話題を変えた。僕は少しだけホッとした。
「嫌だよ。何か……行きづらいし。バイト先に知り合いが来たらフツー気まずいだろ。知り合いの知り合い同士が顔合わせて『あ、どうも……』みたいなさ」
「えー? だってさー、あいつ男の子なのに女の子たちに混じってメイドの格好してパフェとか運んでんでしょ。『お帰りなさいませ、ご主人様!』とか言って。そんなのぜったいフツーじゃないって。あたし、あいつがみんなにどんな風に受け入れられてるのか、めっちゃ気になる」
「どうだっていいよ。そんな金ないし。ああいう店って、ただのオムライスみたいなのが3千円くらいするんだろ。そもそもあそこ、夜は未成年入っちゃだめな店じゃん」
「えー、別にバレないよ。てかバレても捕まるのあたしらじゃないし。無罪なの」
「じゃあ、なおさらだろ。あいつのバイト先に迷惑掛けるなんて……やだよ」
僕はわざと雑に返事をした。本当は行ってみたかった。外から覗くだけでもよかった。だけど、もしそこに居るヒナタが僕の知らない——想像とは掛け離れた——彼だったらと思うと、身がすくんだ。知りたいと思えなかった。それを彼女に知られたくなかった。
『——このビル、雌なんだよ』
僕は中村さんのように、そう言うべきだったのかもしれない。
「そーいやトモヤって、今いくら貰ってんの? お父さんからの仕送りだけでしょ?」
「8万円。服とか、そういう出費は別に出してもらえるけどさ……」
「へー、意外とフツーだね。でもさ、栃木に家があるのになんで東京にマンション持ってんの? トモヤのお父さんって、何かすごい仕事をしてたりする人?」
「違うって。元々は東京で会社勤めしてたんだけど、結婚して栃木に引っ越したんだよ。母さんの実家があるからって、仕事も独立してね。昔はサラリーマンでもマンションを買うとかは普通だったんだってさ。景気が良かったから」
「えー、まじで。あたしもほしー。買えるかな、マンション。えっとね、3LDKでー、でっかい机のある書斎があってー、足伸ばせるお風呂があってー、リビングにはちょーでっかいテレビを置いてー、そこで映画とかみんの、猫と一緒に」
「3LDKに、猫って……いきなり高望みしすぎだろ。そんな家、東京で買ったら1億円くらいするんじゃないのか?」
「1億円? そんなにしないっしょ。てか別に、一人暮らしできるなら東京で暮らす必要もないんだよね。仕事はネットでできるし、それこそ栃木だっていいよ。ね、栃木でおすすめの場所とかある? 宇都宮餃子っておいしい?」
「知らないよ、あんまり地元から出たことなかったから。南の端っこだったから、出掛けるなら群馬の方が多かったしな」
僕はよく休日に自転車で友達と遊びに行っていた隣町の名前を出した。
「どこそれー、知らない。でも群馬は知ってる。未開の地、グンマー。にゃはは」
僕は小さく溜息を吐いた。彼女はそれが実在する街の名前とは知らないのだ。そんな他愛のない話の間も、エリシアは僕の隣を同じ歩幅で歩いていた。彼女はぼんやりとあまねの背中を見つめていた。きっと彼女も、それがこの世界のどこに在るのかを知らない。
「部屋は狭くてもいいけどさ、猫だけは譲れないなー。ねえ、あたしんち、猫飼ってるんだ。オスの黒猫。あたしが小学生の時に来たからもう結構トシだけど、めっちゃ可愛いの。名前はね、『うに』。どう、可愛いでしょ?」
「うに? 何だそれ、寿司のウニ?」
「違うってば。でもとにかく可愛いでしょ。家出るなら絶対うにも連れてく」
あまねはそう言って僕たちにスマホで飼い猫の写真を見せてくれた。想像通りの黒猫が、ベッドの上で日向ぼっこをしながら気持ちよさそうに眠っている。エリシアはそれを見て何か閃いたようにあまねの顔を見て楽しそうに笑った。
「そーいえばトモヤって全然訛ってないよね。あたし、栃木出身って聞いた時、もっと田舎モンなのかなって思って期待したのに、なんかつまんない」
「悪かったな。でもみんなこんなもんだよ、最近は。テレビやネットもあるしさ。父さんは元々あっちの人間じゃないし、母さんも長く東京で働いてたから、家ではみんな標準語で喋ってたよ」
「そお? でもさ、トモヤの喋り方ってフツーの標準語ともちょっと違くない? なんていうかさ……むずいけど。ちょっと文章っぽいって感じ?」
「アイドンノーだな。地元の友達と話す時はもっとテキトーに喋ってたよ」
「友達ぃ? え、トモヤって地元に友達とか居んの? まじで、なんかウケる」
「何がだよ。そりゃ、僕だって友達くらい居たさ。学校……行ってたんだし」
僕はムッとして言い返した。そうだ、僕には友達が居たのだ。彼らと僕は『友達』という言葉でしか言い表せない関係にあった。僕には——友達が居たのだ。
「そっか、そうだよね。トモヤ、あたしと違って高校行ってたんだもんね、一応」
「一応、な。でももう辞めちゃったから関係ないよ。今じゃ誰とも連絡とってないしな」
僕はぶっきらぼうに答えた。それらは全て嘘偽りのない言葉だった。だが本当のことを表した言葉でもなかった。僕は再び空を見上げた。東京スカイツリー。これも僕の故郷の空には無かったものだ。遠いというほどでもないけど、近いというほどでもない。電車に乗れば今からだって帰れる。そんな現実的な距離の向こうに、彼女の知らない僕の生まれ故郷がある。でも『そこ』は『ここ』とは違う。僕の言葉は彼らに届くことはない。彼らの言葉が僕に届くことのないように。それはきっとそのくらいには離れた場所なのだ。
「ねえ、トモヤはさ……」
その時、それまですたすたと歩いていたあまねがピタッと足を止めた。それに合わせて僕も足を止めた。彼女は僕を振り返ることなく、遊歩道の欄干から暗い川面を見下ろしてポツリと言った。
「……なんで高校を辞めたの? 行ったけど辞めるなんて、変じゃん」
それはさっきまでの明るく楽しげな口調とは打って変わった、とても静かで虚ろな物言いだった。エリシアは急に立ち止まった僕たち二人の間で、頭の上に『?』マークを浮かべてキョロキョロと僕たちのことを見比べていた。
「……別に。何となく、つまんなかったからだよ。授業とか、部活とか、みんな同じ学ラン着て校歌を歌うのとかさ。そういうのって、あっちじゃ珍しくないんだ」
僕も川面に目を落とし、彼女が見つめる先の暗闇を見つめながら答えた。
「ユキもさ……」
僕の答えが聞こえたのかどうか、彼女は一人で言葉を続けた。
「なんで途中で辞めちゃったんだろ。中高一貫で附属なんだし、そのまま黙って椅子に座ってれば大学生になれたのに。高校で外に出ちゃったら、また受験やりなおしじゃん」
癖っ毛の前髪に覆われて、そう言った彼女の表情はよく見えなかった。
「やっぱあんな感じだから、いじめられたりとかしたのかな。ほら、女子校ってそういうの多いって聞くし。トモヤはどう? ユキから何か聞いてない?」
あまねは僕の方を振り返って言った。僕は川を見つめたまま何も言わなかった。
「……そっか、そうだよね。学校なんてつまんないもんね。あたしと同じだね」
あまねは自転車のハンドルを握り直し、また前を向いて歩き始めた。エリシアもその後を追った。僕はじっと覗き込んだその小さな川の水面に、ふと自分の故郷の面影を見つけた。
僕の生まれ育った街の真ん中には、大きくて広い川が流れていた。普段は水の流れは緩やかで、水量も多くないのだが、かつて台風による水害で多くの死者を出したことから、今では川幅よりもずっと広い河川敷が造られ、下流の県境には湖のような遊水地があった。市街地は塀のように高いコンクリートブロックの堤防で覆われ、土手に登らなければ川面を覗くことはできなかった。その川には1キロごとに長く大きな橋が架けられ、立派な橋脚に支えられたアーチ橋やトラス橋がいくつも重なって見えた。JRと私鉄の駅が川によって分断されていたため、朝夕はよく車の渋滞が起き、学区も川を境に分かれていた。夏休みや冬休みになると、小学校の先生は『橋向こうには子供だけで行かないようにしましょう』と言った。
どうしてそんなことを思い出したのだろう。それはこんなジャンプすれば飛び越えられそうな小さな川とは、何もかも違ったはずなのに。
浅草橋駅に着いた後、僕たちはあまねの誘いで三人でファミレスに入って夕飯を済ませた。僕はエリシアがどんな料理を頼むのか少し興味があったが、彼女は写真付きメニューをぺらぺらとめくりながら最終的にオムライスを頼んだ。それは何とも普通のチョイスで、彼女の素性の手がかりにはなりそうもなかった。僕はハンバーグのセット、あまねはクラブハウスサンドを頼んだ。8時を過ぎていたせいか店内は混雑しておらず、エリシアは人目を引くこともなかった。
会計を済ませて店を出た後、あまねがそっと僕の袖を引いた。
「あのさ、一応聞いとくけど……トモヤんちって女の子の着替えとかあんの?」
彼女はエリシアに聞こえないようにそっと僕に耳打ちをした。
「一応って……ないよ。そんなの当たり前だろ。彼女とか居ないんだし」
「いや、胸張って言うことじゃないし。んじゃ、ちょっとここでエルシィと待ってて。あたしが買ってきてあげる」
あまねはビシッとツッコミを入れ、外しかけた自転車のスタンドを元に戻した。そして何も言わずにそそくさと近くのスーパーに入っていった。洗顔クリームでも買いに行ったのだろうかと外で待っていると、しばらくして彼女が紙袋を胸に抱えて出てきた。
「はい、エルシィ。これ使って」
エリシアは『何かしら』という顔をしてあまねから受け取った袋の中身を覗き込んだ。僕がチラッと視線を泳がせると、あまねは露骨に煙たそうな目をした。袋の中には女性用の下着——つまりはブラとパンツ、それと靴下が入っていた。エリシアはそれを見てパッと顔を赤くして、あまねにペコリと頭を下げた。
「とりあえず、服は全部洗ってあげて。夜のうちに干しとけば下着以外は乾いてるでしょ。湿ってたらドライヤーでぶわーって。パジャマはテキトーにゆるい感じの服着せてあげて。……言っとくけど、着替えとか覗いたら許さないからね」
そんな心配など必要ないというのに、あまねはジットリ湿った冷たい目で僕を睨みつけた。まったく、今まで僕がどれだけ信用を積み重ねてきたと思っているのだ。黙って背中を送り出してくれるだけでいいのに……とか思っていると、エリシアは両腕を広げてあまねをぎゅっと胸に抱き寄せた。
「にゃっ! え、エルシィ、どうしたの? なんか寂しくなったった?」
「あまね、……XXXXX」
エリシアはあまねの頭に頬を寄せて何かを囁いた。それは久々に聞くエリシア語の言葉だった。でも僕にはその意味が分かった。それはあまねも同じようだった。
「うんうん。いーよいーよ。大変なのはエルシィの方なんだし。そーいう時はね、『ありがとう』って言うの。あ・り・が・と・う。ほら、言ってごらん?」
あまねはエリシアの腕の中からぴょこっと顔を覗かせて言った。
「あ、り、が、と、う?」
「そう、ありがとう。エルシィ、今あたしにそう言ってくれたんでしょ?」
「うん。あまね、ありがとう」
エリシアはうるうると目を潤ませながらあまねをまた抱きしめた。あまねは珍しく照れて顔を赤くしながら、はねた前髪をくるくるとねじった。
「……ほんとはさ、あたしんちに泊めてあげられたらよかったんだけどね。こればっかりは、どーしょもないからさ」
どうしようもないからさ、と彼女は言った。それはいつも子供っぽい彼女からは想像もできないほど大人びた、冷たく寂しい響きの言葉だった。
「ね、トモヤにも言ってあげなよ。『ありがとう』って」
「うん。トモヤ、ありがとう」
「え? いや、まあ、うん……。こちらこそ、どういたしまして」
エリシアは僕の手を取ってまたペコリと頭を下げ、それからじっと僕の目を見つめた。その混じり気のない純粋な好意の瞳で見つめられると、僕はその中に自分のあらゆる不純さを映し出されるようでたまらない気持ちになった。こんな風に誰にでも素直に自分の気持ちを伝えられたら、どんなに善いことだろう——と。
——エリシア、君は本物の魔法使いなのか?
街灯の光に照らされてキラキラと煌めくエリシアの銀色の髪と紅い瞳を見ながら、僕はまたそんなことを思った。