夜勤が始まってから数時間が経過し、本格的に夜が秋葉原の街を覆う時間帯になった。黒田巡査はパトロールや通常業務と休憩を挟み、駅前交番の前で立番に従事していた。ただ立っているだけではあるが、駅前という人通りの多い場所においては警察官が居るか居ないかでトラブルの発生率は段違いになる。
パトカーによる巡回も地域警察官の重要な仕事の一つだが、警備上の要所に置かれた交番での立番も重要な仕事であった。夕方から夜へと時刻が移り変わる中でも、秋葉原駅の広場を行き交う通行人の足並みは減らず、ガヤガヤとした騒がしさが耳についた。
「——巡回中の畠中から指令室。外神田二丁目、妻恋坂交差点付近の路上で男性2名による小競り合いが発生。双方ヒートアップしていて危険。至急応援願います。どうぞ」
イヤホンをつけた黒田の耳に警察無線の通信が入ってきた。パトロール中の畠中からだ。黒田は聞き漏らさないようにイヤホンに手をやった。
『——指令室了解。近隣の警官は急行してください。駅前交番、どうぞ』
「はい。こちら駅前交番、黒田です。現場に向かいます、どうぞ」
黒田は無線マイクを切ると、交番の表に不在の札を掛けて走り出した。中央通りを上野方面に上がり、末広町の交差点を曲がる。すると、蔵前橋通りの向こうに人だかりが出来ているのが見えた。
「おい見ろよ、喧嘩やってるぜ」
「ほんとだ、何があったんだ?」
「さあ、あのオッサンたちがリーマンに絡んでるみたいだけど」
「あ、また警察来た。やば」
喧嘩の野次馬だろうか。狭い歩道の片側には通行人と思わしき多数の人間が壁を作っていた。向こうの様子は外からは窺えない。黒田は人垣を掻き分けて進んだ。
「はい、通して、通してください。離れて!」
中心に近づくと、酔っ払いらしい男の怒鳴り声が聞こえてきた。見ると、50代くらいの禿頭の男が、スーツ姿のサラリーマンに突っ掛かっていた。今にも殴り掛かろうと暴れているが、その二人の間に畠中が立ち塞がって防いでいた。
「お父さん落ち着いて。離れて、手出したらダメですよ。ほら、やめて」
「うるせえってんだよ。お前こそどけよ、そいつから絡んできたんだ。ガンつけやがって。やんならやんぞ、かかってこいや、オラ!」
畠中の制止を振り払い、禿頭は呂律の回らない口調でなおも掴み掛かろうとした。黒田は咄嗟に後ろから男の肩と腕を押さえ、男を畠中から引き剥がした。
「やめなさい! これ以上暴れるとしょっぴくぞ!」
畠中が業を煮やしたように厳しい口調で男に詰め寄る。すると男はぶつくさ言いながらも暴れるのをやめ、黒田の手を振り払ってすごすごと去っていった。
「ケッ、人を馬鹿にすんのも大概にしろってんだ、クソ野郎が!」
去り際に男はそんな悪態を吐いた。黒田はその言葉が誰に対して発せられたものなのか分からなかった。それは自分に対する言葉だったのだろうか。
「すまん、助かったよ、黒田」
畠中が乱れた制服のシワを払いながら礼を言った。
「いえ、畠中さんこそ大丈夫ですか? 何があったんです?」
「ああ、さっきの男があの人たちに一方的に絡んでてな、すごい剣幕で」
畠中は後ろを振り返り、背中に隠れていたサラリーマンたちを指し示した。黒田はハッとした。そのスーツ姿の二人組の姿によく見覚えがあったからだ。
「あの二人……」
「なんだ、知ってるのか?」
「ええ、ちょっと……」
黒髪の中年と、金髪の若者。それは夕方、交番に来て佐々木が対応した芸能事務所のマネージャー、スズキとワタナベだった。遅れてきた畠中はその姿を見ていないので気が付かなかったようだ。黒田がそう説明しようとした矢先、畠中は歩道に集まった通行人たちに大きな声を上げた。
「解散してください! 集まらないで、止まらないで! 交通の妨げになります!」
まるで牧羊犬に追われる羊の群れのように、畠中に促された野次馬たちはぞろぞろと四散していった。黒田は迷ったが、スズキたちに声を掛けることにした。
「大丈夫でしたか? お怪我はありませんか?」
「……ああ、お巡りさん。ありがとうございます。大丈夫ですよ、幸い殴られたりはしてませんから」
スズキはふっと柔らかな笑みを浮かべた。隣のワタナベも同じくビジネススマイルを浮かべる。黒田はその平静さに驚いた。彼らはたった今まで、殴り合いの喧嘩に発展しそうなトラブルに巻き込まれていたはずなのだ。一体、どういうつもりなのだろう。
「あの、お二人、夕方に駅前交番にいらしてましたよね? 芸能事務所のマネージャーの、鈴木さんと渡辺さん……」
「え? はい、そうです。あ、あの時のお巡りさんですか。はは、すみませんね、一日に何度もお世話になってしまって」
スズキは思い出したように頭に手をやった。黒田はそんなスズキの体をまじまじと見つめた。態度こそ下手に出ているが、スズキの肉体はシャープに引きしまり、スーツの上からでも曲げた腕や肩の筋肉が盛り上がっているのが分かった。まるで現役の格闘家のような体躯だ。やっぱりマネージャーには見えない、と黒田は思った。
「私たち特に何もせずに歩いていたんですがね、急に絡まれたんですよ。まったく困ったもんですよね。言葉も何も通じないんだから。あのお巡りさんがたまたま通りかからなかったら、きっともっと大変な目に遭ってましたよ。怖いなあ」
スズキはそう言って笑った。だが黒田はそれが決して本心から来る言葉でないことを悟った。あんな酔っ払いに掴み掛かられたところで、この男の体はびくともしないだろう。警察官の体格検査だって、この男なら文句なしにパスするに違いない。
「それはよかったです。……ところで」
『——あの二人組、なんか怪しいんだよな』
黒田は話を切り出した。実際に二人と対峙したことで、黒田は佐々木が言っていたことの真意を理解した。この男たちの言葉や態度には、誠実さというものが欠けている。同情も共感も、全ての言葉が軽々しく、嘘にしか聞こえない。
「タレントさんを探していると仰っていたそうですが、そちらは見つかりましたか? 外国人の、魔法使いのような服装をした少女と伺っていますが」
『魔法使い』——黒田がその単語を口にした瞬間、スズキとワタナベの顔からふっと笑みが消えた。笑顔で細めた瞼の隙間から覗く視線の色が、フィルターを掛けたように切り替わる。それはまるで、飢えた獣が獲物を見定めるかのような鋭い眼光だった。
「……ええ、おかげさまで。あの後ちゃんと見つかりましたよ」
「……はい、さんざん苦労しましたが。どうにか、こうにか」
スズキは笑みを作り直して答えた。ワタナベもそれに調子を合わせた。
「私ら、あの後もここら辺をぐるぐる探し回ってたんですがね、結局見つからずに途方に暮れてたんです。で、もう諦めようかって話してる時に会社から電話が掛かってきましてね。ああ怒鳴り散らされるな、嫌だなって思って出たら、その子が見つかったって言うんですよ。え、どこでって聞き返したら、会社の方に戻ってきたって言うんですね。で、嫌だから辞めるって言って帰っちゃったらしいんですよ。酷い話じゃないですか?」
「え、そうなんですか?」
「そうなんですよ。まったく、こっちの苦労も知らないで、自分勝手すぎますよね、若い連中ってのは。まあでもとにかく見つかったなら見つかったでいいやってことで、先方にまた謝りに行ってきて、これから帰社するところなんです。上司もカンカンですよ、気が重いです。叱責されるためだけに帰るなんて、虚しいですよね。でも仕方ありません。働くってそういうことですもんね」
「はあ……」
饒舌に物語るスズキに、黒田は困惑した。それは彼の問い掛けに対する、とても丁寧な説明だった。だが聞きたかったはずの話を聞いても、黒田の疑念は晴れることはなかった。むしろ、より一層深まったと言うべきだった。
「お前も覚悟しとけよ、元はといえばお前の責任なんだからな」
スズキはそう言ってワタナベを見た。ワタナベは恐縮そうに肩をすくめ、「お巡りさん、どうもすみませんでした」と軽く頭を下げた。キツネのような細い笑みは相変わらずだった。笑っているのか、それが素の表情なのかが、読めない。
「それじゃ、私らこれで」
スズキも会釈を垂れ、ワタナベを連れて歩き出した。
「あ、ちょっと、待ってください!」
「……まだ何か?」
黒田が思わず呼び止めると、スズキとワタナベはとてもゆっくりと振り返った。まるで何かの準備を整える時間が必要だったかのように。
「すみませんが、もう一度、連絡先を頂けますか。何かこちらで分かりましたら、ご連絡を差し上げますので。なにしろ、未成年者が関係しているようですし——」
「未成年者?」
黒田が食い気味に申し出ると、スズキは小さく首をひねった。そして彼の目をじっと覗き込んだ。まるで彼がその二の句を継ぐことを待つかのように。黒田は最初、その言葉の意味が分からなかった。だがすぐにハッとした。
「いやだなあ、お巡りさん。いつ私たちがそんなこと言ったんですか?」
「いや、それは……」
「私たちが探してるのは、れっきとした成年者の女性ですよ。身分証で年齢も確認してます。まさか、そんな子供の外人を働かせるはずないじゃないですか」
しまった——。黒田は内心で激しい焦りを感じた。件の少女が未成年にしか見えないというのは、彼が佐々木から聞いただけの話だった。どうやら、佐々木が応対した時には具体的な年齢の話はしていなかったらしい。
「……すみません、勘違いでした。どこかで話が混ざってしまったようで」
「へえ、勘違い。それはそれは……」
黒田の言い訳を疑うように、スズキはねっとりとした口調で続けた。
「とにかく、あなたたちの会社の連絡先を教えてください。代表電話でも構いません、何か別件で進展がありましたら、ご連絡差し上げますので」
「なぜです?」
「なぜって……今言った通りですが」
「名刺なら、すでにお渡ししましたよ。そちらで十分だと思いますが」
「それは……」
お前らが持って帰ったんだろうが——。黒田は喉元まで出かかった悪態をぐっと飲み込んだ。これは俺の失態だ。これ以上、佐々木さんの顔に泥を塗るわけにはいかない。
「こちらの手元に名刺が残っていないのですが、持ち帰られたりされていませんか? よろしければ、もう一度、頂きたいのですが」
黒田がそう申し出ると、スズキはパッと目を見開いて驚いた。
「へえ、何ですかそれ? それはつまり——失くしたと仰る?」
「いえ、ですから……」
「そんなことするはずないでしょう。一度出した名刺をお断りなしで持ち帰るなんて、そんな礼を失したことはしませんよ。侍の刀と同じです。名刺は信頼の証ですから」
スズキはそう言って軽く両手を広げて、ふっと鼻で笑ってみせた。
『あの中年がノロマだから悪いんだよ。ちょっと手をくすねただけだってのによ』
「ああ!? 何だと!?」
突如、耳に飛び込んできたスズキの悪辣な言葉に、黒田は思わず声を荒げた。
キイン——。刹那、鋭い片頭痛のような痛みが黒田のこめかみを突き刺した。何だこれは——混乱する黒田を尻目に、スズキはつまらなそうに肩をすくめた。
「……もう放っておいてくれませんか。軽々しく警察なんかに顔を出したのは謝ります。もっと自分たちだけでよく探すべきでした。で、行かせてもらえます? これ以上寄り道して、ボスに怒られたくないんですよ」
スズキはそう言い終わるより早く、踵を返してつかつかと歩き去った。傍らに突っ立っていたワタナベも何食わぬ顔でそれに続いた。
「あ、ちょっと……!」
黒田が手を伸ばした時にはもう、二人の男たちは雑踏の中に紛れて消えていた。すれ違いざまに歩いてきた飲み会帰りの学生たちは、黒田に気付くと露骨に彼を避けて歩いた。
「おい、黒田どうした? あの人たちは?」
立ち尽くす黒田の元に、野次馬の整理を終えた畠中が戻ってきた。
「畠中さん……」
「なんだよ、変な顔して。なんかあったのか?」
「さっきの二人組ですよ。あれ、佐々木さんが言ってた奴らです。魔法使いのコスプレ少女を探してるっていう、怪しい芸能事務所のマネージャー」
「え、そうなのか。で、何の話をしてたんだ?」
「とりあえず連絡先を聞こうと思ったんですが……逃げられました」
「身分証は? 確認したのか?」
「いえ、それも。でも名前は覚えてます。確か、鈴木均と渡辺正……」
黒田は二人が歩き去った飲み屋街の方を見た。きらびやかな看板、そこにたむろする酔っ払いとキャッチたち。彼はその雑踏の遥か奥に、明かり一つ見えない真っ黒な路地裏の入口を見つけた。その暗闇は黒田に、無言で何かを語り掛けているようだった。
「……俺、やっぱり話聞いてきます。佐々木さんの言う通り、何か嫌な予感がするんです。まだ遠くには行ってないはずだ。今から走って追い掛ければ——」
「おい、待てって」
駆け出そうとした黒田の腕を畠中がガシッと掴んだ。
「職質掛ける時は二人でって教わっただろ。どうせ任意なんだし、一人だったら舐められて逃げられるのがオチだ。行くなら俺も……」
——ザザッ。畠中が言いかけた、その時だった。二人の無線のレシーバーからノイズ混じりの声が聞こえてきた。
『——秋葉原署指令室から巡回中の各員に通達。外神田6丁目付近の繁華街で無銭飲食をした男が暴れているとの通報あり。近隣の警官は至急、現場に急行してください。繰り返します。至急、現場に急行してください』
「こちら畠中。黒田と現場近くに居ます。急行します、どうぞ」
『——指令室了解。詳しい位置情報は追って連絡します。目印は……』
無線連絡を受けた畠中は、携帯地図でその大まかな場所の見当をつけた。
「すぐ近くだな。黒田、悪いがマネージャーの件は後回しだ、行くぞ」
「は、はい」
緩みかけた緊張の糸が再びピンと張り詰める。新人警官である黒田はまだこの一瞬に慣れなかった。二人は駆け足で指示された住所に向かった。
「だからさあ、お前らが言ったんじゃねえか。何を今さら言ってんだよ、なあ」
現場に着くと、繁華街の路上に数人の男たちがたむろしていた。不服そうな口調で文句を言っているのは、路上に尻もちをついた一人の男だ。その男は土木作業員のような青いツナギを着た長身痩躯の中年だった。屋外作業で日焼けしたような浅黒い肌に、白髪交じりのボサボサの髪。一見してひどく風体の悪い人間だった。
「デカパイの可愛い子がたくさん居るってさあ、お前ら言ってたじゃねえか。どこがだよ、ブスとデブしか居ねえじゃねえか。嘘吐いてんじゃねえよ、金返せよ」
「この馬鹿が! ウチの店はお触り禁止だ! 何勘違いしてやがんだ、ったく」
「金返せじゃねえだろ、てめえ金持ってねえじゃねえか。何言ってんだ、ボケが」
「そうだ。なのにあんなにたらふく飲み食いしやがって。頭イカれてんのか?」
壁際にツナギ男を囲むように三人組のスーツの男が立ちはだかっている。どうやらキャバクラか何かのボーイたちのようだ。
「禁止ぃ? おいおい、お前らこそ馬鹿言うなよ。あんだけボロンと出してたらそう言ってんのと同じだろ。『お願い、触って~』ってさ。俺あよ、あんブスたちの心の声を聞いてやっただけだって。お前らだって裏の方でコソコソやってんだろ? カタいこと言うなよ」
「舐めた口ききやがって、てめえ。立って帰れないようにしてやろうか、ああ?」
「おい、何やってんだ! 放しなさい、あんたたち!」
ボーイたちがツナギ男を袋叩きにしようとした直前、畠中と黒田はその間に割って入った。三人分の疎ましげな視線が黒田たちに向けられる。制服姿の彼らを目の当たりにして、男たちはチッと舌打ちをしてツナギ男の胸ぐらを放した。
「ったく遅えよ、何やってんだよ、お前ら。呼ばれたらさっさと来いよ、カスが」
リーダー格らしき男が悪態を吐く。ストレートなロン毛を後ろでまとめた、ガラの悪い男だった。それを取り巻くボウズとマンバン7)も、疎ましい目で彼らを睨んだ。
「ああ、お巡りさん。よく来てくれたな。ちょっと聞いてくれよ、こいつらがさ、嘘吐くんだよ。でっかいおっぱいの可愛い子ちゃんがいいことしてくれるって言うからついてったのによ、何もねえんだよ。そのうえ、ちょっと突いたら急に騒ぎ出しやがってよ。こういうのってボッタクリって言うんじゃないの?」
「余計なこと言うな、お前は黙ってろ! この食い逃げ野郎が!」
再び掴み掛かろうとしたボウズを、黒田が身を挺して止める。
「えーと、無銭飲食の通報を受けて来たのですが、あなたたちがそう?」
畠中がツナギ男とロン毛の双方を見回して尋ねる。答えは聞くまでもなさそうだ。
「そうだよ。この男、財布も持ってねえのにウチの店でしこたま食うわ飲むわしやがって。そのうえ、ウェイトレスの女の子にもちょっかい出しやがって。ねえ、逮捕してくださいよ。犯罪でしょ?」
「それは本当ですか? あなた、本当にお金持ってないの?」
畠中がツナギ男を見下ろして質問する。すると男は、ニヘラッと笑って答えた。
「まあ、今はな。でもツケといてって言ったぜ、後でちゃんと払うからって。なあ聞いてくれよ。俺、もうすぐ目も眩むような大金が手に入んだ。信じてくれよ」
「そんな都合の良い話があるか。お前みてえな初見のゴロツキがツケなんて貰えるわけねえだろうが。何考えてんだ、嘘吐いてんじゃねえぞ!」
「嘘じゃねえよ、俺は仕事でこっち来てんだ。嘘じゃねえよ……」
黒田に制止されたロン毛が唾を飛ばす。畠中はハアと深く息を吐いた。
「じゃあ、ちょっと署まで来てもらえる? 一応、逮捕だからね」
「え? おいおい、そりゃねえよ。待ってくれよお巡りさん、豚箱は勘弁してくれよ。俺、今日帰ってきたばっかなんだ。見逃してくれよ、頼むよ」
畠中が逮捕宣告をすると、男は急にしおらしい態度になった。不意の抵抗に備え、黒田も援護の構えをする。畠中は足にしがみつくツナギ男の元にしゃがみ込んだ。
「……おい、変なことするなよ。警察殴ったら、簡単に出られなくなるからな」
畠中はドスを利かせた声で男に忠告した。
「そんなあ。そんな野暮なことしませんよ。俺あ、ただ腹減ってただけで……」
ツナギ男は情けない声で拝み顔をした。なんだよ、これじゃまるで俺たちが悪役みたいじゃないか——黒田は畠中の背中を見ながらやるせない気持ちになった。
「22時5分。現行犯。無銭飲食の疑い。ほら、さっさと立って」
畠中が形式に則って逮捕宣告をすると、ツナギ男はガクッと項垂れた。逆らっても無駄と観念したのだろうか。土埃に塗れたボサボサの黒髪が男の目元を隠す。畠中は気付いていなかったが、黒田は見ていた。ニヤッ——。その男の口元は、確かに笑っていた。
「では、これから署に連れていきますが。被害届と実況見分がありますので、どなたかご同行願えますか。あと、お店の場所と名前もお伺いできれば」
「ああ、はいはい。分かりました。後で行きます、後で。今忙しいから、そっちでテキトーにやっといてくれる?」
黒田が手続きの準備を始めようとすると、ボーイたちはまるで頃合いを見計らったようにサッと踵を返した。黒田は咄嗟に三人の前に回り込んで立ち塞がった。
「……何これ、どういうつもり? 俺ら一応、被害者なんですけど」
先頭で立ち止まったロン毛が、黒田にメンチを切った。
「でしたら、事件の被害届を提出していただく義務があります。お手数をお掛けしますが、事件の捜査を行うために必要な手続きです。お店に立ち入らせていただくことになりますので、場所をお伺いできますか」
黒田は精一杯へりくだって言った。すると、男たちはヘラッと笑みを浮かべた。
「ダメだよー、歩いてる人の邪魔したら。これって職質? それとも他の何か?」
ロン毛は黒田に接近し、彼を顎下から見上げて嫌味に言った。黒田は思わず髪の毛を鷲掴みにして、地面に組み伏せてしまいたい衝動に駆られた。
「おい、何やってんだ黒田! その人から離れろ、ちゃんと道を空けろ!」
ツナギ男と腕を組んだ畠中が慌てて言う。黒田はハッとして後ずさりした。
「お、お兄さんハナシ分かる人だ。そうそう、被害とか言ってたけど、なんか気のせいだったっぽい。じゃ、特に何もなかったってことでよろしく。おまわり——ちゃん」
ボーイたちは嘲りながら黒田の横を素通りし、やがて近くの裏路地に入って消えた。黒田はぎゅっと目を瞑り、強く拳を握りしめた。何やってんだ、俺は——。
「……なんだ、日本の警察ってのは随分お優しいんだな」
その声に、黒田はハッと目を開けた。それは、ツナギ男が言い放った言葉だった。
「見て見ぬふりかい。言葉一つで簡単に言いくるめられちまって。なあ、あいつら相当悪どい商売やってるぜ。何とは言わねえが……まあ、タダメシよりは悪いことだったな」
ツナギ男は畠中の肩に掴まりながら、黒田にニヤニヤと侮蔑の笑みを向けた。
「おいお前、今なんつった? 舐めた口きいてんじゃねえぞ、食い逃げ野郎が!」
「やめろ、黒田! あんたもだ、いい加減にしないか!」
カッとなって男に詰め寄る黒田を、黒田は間に入って諌めた。ツナギ男は言った。
「兄ちゃん、あんた若いな。随分と若い。まだ二十歳くらいか? いいねえ、その目。ギラギラしてて、俺も年甲斐もなく昔を思い出しちまうよ。なあ、その腰にぶら下げてんのはお飾りか?『言うこと聞かねえとぶっ殺すぞ』とでも言ってやりゃよかったんだ。どうせ、言っても分かりゃしねえような連中なんだからな。俺だって、やればできるぞって」
酒に酔っているのか、ツナギ男はふらっとした足取りで自立すると、黒田のホルスターに収められている拳銃を指差した。黒田は咄嗟にストラップに手を掛けた。そうしなければ、ツナギ男の手がそこまで伸びてきそうな気がしたからだ。
「なあ、それ俺に貸してくれよ。サンパチ8)でも、狙うとこ狙えやちゃんと人は殺せんだ。お前の代わりに俺があいつら撃ってきてやるよ。安心しろ、空っぽにはしねえから。残りの2発は祝砲として聞かせてやるよ。やったぜ兄ちゃん、ぱんぱんってな、はは」
ツナギ男はまともに呂律の回らないような口調で笑い上げ、ぐっと手を伸ばした。まずい、と黒田が咄嗟に体を構えたその瞬間、男の体は地面に組み伏せられていた。
「公務執行妨害、現行犯だ。ったく、舐めた口きいてんじゃねえぞ、酔っ払いが……」
畠中は冷たい口調で罵声を浴びせ、男の後ろ手を取って膝を背中に押し付けた。そして無線のレシーバーを手に取り、指令室に連絡を取った。
「あー、巡回中の畠中より指令室。外神田6丁目付近の繁華街で男1名を逮捕。罪状は無銭飲食の疑い、及び公妨の現行犯。至急、パトカーの合流を要請。どうぞ」
『——えっ? あー、3号車、合流至急。被疑者は男性1名? 他には?』
「いえ、1名だけです。黒髪で長身の中年の男。名前は……」
畠中はそこで、この男の名前を未だに知らないことを思い出した。
「おい、あんた名前は。名字だけでもいい、教えなさい。身分証出して」
「……何が正義の味方だよ、嘘吐きが。……警察は悪モン捕まえるためにあんだろうが。……それがこんな腰抜け共の集まりじゃ、やっぱこん国は……」
男は路上に顔を伏せたまま、前後不覚のうわ言を言ってそのまま黙ってしまった。
「名前は不明です。泥酔していて急性アルコール中毒の疑いもあります。すみませんが、水とタオルの用意をお願いします。どうぞ」
『了解』という声がスピーカーから聞こえてきてすぐ、通りの方でパトカーのサイレンが止んだ。そして角の向こうから、彼らと同じ格好をした二人の警官が駆けてきた。
「畠中、黒田! 大丈夫か? 公妨って言ってたが、二人とも怪我はないか?」
心配そうに声を掛けたのは地域課警ら係の通信手、新藤剛士警部補だ。
「ええ、まあ……」
畠中は背中に載せていた膝をどけ、うつ伏せに倒れたままのツナギ男を眺めた。鞄のような物は身につけていない。さっきのボーイたちの言う通り、本当に一文無しのようだ。
「3号車、井口から指令室。現着、被疑者は泥酔状態で抵抗の恐れなし。22時14分、現行犯。このままアキバ署に引致します。すぐに留置の準備をお願いします」
新藤とコンビを組む運転手の井口晃巡査が、畠中たちに代わって報告をする。彼ら四人のレシーバーから同時に『了解』というくぐもった音声が響いた。
「無銭飲食とも聞いてるが、被害者は? どこの店だ?」
「とぼけて消えました。どうせ、裏通りの怪しいパブですよ。よくボッタクリで通報されてる店。こいつがそんなことほざいてました。まあ、あれじゃ被害届も出しに来ないでしょうね。立ち入りされて困るのはあっちですし」
畠中は諦めたように呟いた。この男の言っていたことは正しい。ボッタクリや風営法違反スレスレの飲食店。昼は明るく観光客で賑わう秋葉原という街も、日が暮れれば暗い裏の顔を覗かせる。それは彼らが日々、しつこく路上の客引きを追い払う理由でもあった。
「……畠中さん、本当にあれで良かったんですか?」
どんよりとしたムードで話をする畠中と新藤に、黒田がポツリと漏らす。
「新人の俺だって分かります。あいつら、どうせロクな商売してないんです。強引にでもついていって、店に踏み込んでやればよかったんですよ。どうせ後から通報されてまた行くことになるんです、だったら今、俺たちが——」
「俺たちが、何だって?」
「それは、その……」
畠中と新藤の真剣な表情に見つめられ、黒田は口ごもった。俺は何を言おうとしたんだろう、と彼は混乱した。『その腰にぶら下げてんのはお飾りか?』——彼の脳裏にふとツナギ男の言葉がリフレインした。黒田はハッと不安になって腰のホルスターに触れた。
そこには銃があった。彼はホッとした。
「俺たちは警察官だ。警視庁の。違うか?」
「そうです。でも……」
「日本は法治国家だ。警察も、捜査活動も法律に則って行われる。どんな通報を受けても、どれだけ疑わしくても、証拠がなければ逮捕はできない。令状がなければ私有地に踏み入ることもできない。名前を聞くことだってそうだ。それは憲法で保障された国民の権利だからだ。学校で習ったよな?」
「それは……。だけど俺……あんなこと言われて、悔しいっていうか。先輩はそれでいいんですか? 本当に、こんなんでいいって思ってるんですか?」
黒田は拳を握りしめて俯いた。惨めさが彼という人間を包み込もうとしていた。畠中はそれ以上何も言わなかった。いいわけねえだろ——畠中は心の内で吐き捨てた。だがそれを口にすることはしなかった。言わなくても分かれ、と彼は強く念じた。
「黒田くん、君の気持ちは分かる。だが警察は憎まれてナンボだ。俺たちの仕事は決して悪モンを捕まえることじゃない。市民の安全を守ることだ。怪我人でなきゃそれでヨシだ。安心しろ、俺たちだけがアキバ署の全てじゃない。後のことは生安がちゃんとやってくれるよ。君は君の仕事をしっかりこなせ、な?」
新藤は黒田の震える肩をぽんと優しく叩いた。彼は佐々木と同年代で、警ら係では係長を務める穏やかな性格の人物だ。黒田は無言で頷いた。そうするしかなかった。
「じゃ、連れてくか。参ったな、完全に寝ちまってる。こいつ重そうだな……よっと」
新藤と井口は、昏睡するツナギ男の両腋を肩に抱えて起き上がらせた。大柄な男たちが集まる中でも、やはりかなりの上背がある。180センチはゆうに超えているだろう。
「……あれ、なんか落ちたな。畠中、拾ってくれるか?」
二人が担ぎ起こした拍子に、ツナギのポケットから冊子のようなものが落ちた。新藤に言われて畠中が拾い上げると、それは外国のパスポートだった。
「ゆにおん……えうろぺあ……エスパーニャ? こいつ、スペイン人なのか?」
畠中はパスポートの表面に書かれた英字を読み上げて驚いた。中を開くと、そこにはツナギ男の顔写真が載っていた。それはスペイン国籍を示す本物のパスポートだった。
「スペイン人? こいつが?」
新藤が半信半疑の表情を浮かべて男の顔を覗き込む。どう見ても、日本人の顔つきだ。
「ええ、日本語も喋ってましたし……。名前は……シノノメ・ジューゴ」
畠中は写真の横に英字で書かれた男の名前を読み上げた。漢字の表記はない。だがやはり日本人のような名前だ。帰化人にしても、珍しい名前だが……。
「まあ、詳しいことは署で聞くよ。ご苦労だったな。二人とも箱詰めに戻ってくれ」
警ら係の二人は軽く敬礼をすると、そのままズルズルと男をパトカーまで引きずっていった。サイレンの音が遠くなるのを待って、畠中と黒田は交番に戻った。
それから数時間、時刻は午前0時を回ろうとしていた。パトロールを終えた二人は交番に戻り、交代で休憩をしていた。畠中は待機場で仮眠をし、黒田はカウンターに座ったままガラス越しに外を見ていた。終電が近いというのに、街灯の明かりに照らされた駅前広場には、人の姿は見られなかった。やけに静かだな、と黒田は思った。
そんな彼の頭の中に、ツナギ男、シノノメ・ジューゴの声がリフレインした。
『——見て見ぬふりかい、言葉一つで簡単に言いくるめられちまって』
(……うるさい、黙れ)
黒田はそのねっとりとまとわりつくような男の物言いに苛立った。しかしそんな彼の気持ちを弄ぶように、シノノメの声は響き続ける。
『——なあ、あいつら相当悪どい商売やってるぜ。何とは言わねえが』
(……分かってる、そんなこと。でも、仕方ないんだ。警察は軍隊でも治安部隊でもない。日本は法治国家だ、畠中さんもそう言ってたじゃないか……)
『——「言うこと聞かねえとぶっ殺すぞ」とでも言ってやりゃよかったんだ』
(……そんなことできるはずがないだろ! これは脅しの道具だ、撃つためのものなんかじゃない。学校でも厳しく教わったんだ、馬鹿なことを言うな……)
『——なあ、それ俺に貸してくれよ。お前の代わりに俺があいつら撃ってきてやるよ』
(黙れ、黙れ! 怒りに任せて暴力を振るったら、それは犯罪者と同じだ!)
黒田の幻聴は治まらなかった。それは単なる記憶のフラッシュバックからは逸脱していた。シノノメの声はソリッドな現実感を伴い、黒田の意識を支配していった。
「俺は……違う。あいつらとは……違うんだ」
黒田は正気を保つために頭を振ったり頬を叩いたりした。だがそうすればするほど、彼の意識にまとわりつくシノノメ・ジューゴのうわ言はよりはっきりしていった。そしてやがてその声は彼自身の内なる声と混ざり合い、その境目が分からなくなっていった。
『へえ、兄ちゃん、そうやってあの魔女も見て見ぬふりすんのか?』
「あの魔女? 何の話だ、一体。黙れ、お前は一体、何者なんだ!」
『とぼけるなよ、分かってんだろ。だってお前、あのおっちゃんに聞いたじゃねえか。夕方、お前が今ここに居る場所で。もう忘れちまったのか?』
「夕方……? 佐々木さんの話のことか? 何でお前がその話を知ってるんだ!」
『馬鹿、俺はお前だからだろ。当たり前さ、だってここにはお前しか居ねえぞ?』
「魔女ってなんだ。コスプレのことだろ? 芸能事務所の、外国人モデルの……」
『へえ、お前はあいつらの言い分を信じんのかよ。どう見ても嘘なのによ。で、結局見て見ぬふりか。救えねえな、どうにも。自分の目で見たものも信じられねえなんて哀れだな。腰抜け以下のヘナチン野郎だ。お前……玉ナシなんじゃねえのか?』
「黙れ!」
黒田は無人の交番でひとり絶叫し、カウンターを叩いて立ち上がった。
『ほら、ちゃんと目え開けて見てみろよ。なあ、その向こうに何が見える?』
刹那、黒田はハッと目が覚めたような心地になった。表の扉のガラスの向こう、駅前広場の真ん中に、何かぼんやりと紅く光っているものが見えた。それは人の形だった。
「銀色の髪に……紅い瞳……」
『そう、そうさ。なんだ、ちゃんと見えてんじゃねえか、兄ちゃん』
「とんがり帽子に……黒のローブ……」
『な、言っただろ。誰がどう見ても魔女だって分かるカッコをしてるってよ』
それを最後にその声は聞こえなくなった。黒田は交番を飛び出し、道路を渡って広場に直進した。それは見間違えなどではなかった。誰も居ない真っ暗な広場の中心、0時を指し示した時計台の真下にその少女は立っていた。
「おい、君、そこで何してるの! こんな遅い時間に、危ないよ!」
黒田は大声を上げながら少女に向かっていった。ぼんやりとしていた少女の輪郭は、一歩距離を詰めるたびソリッドに形を変えていった。本当に——本当だ。佐々木さんの言う通りじゃないか。彼は目前に迫ったその銀髪の少女の姿に、強烈な現実感を得た。
「なあ、聞こえてるの! 聞こえてるなら返事を——」
——フッ。黒田の目の前で、少女は姿を消した。彼はハッと目を見開いた。
「あいつ……何でこんな所に……」
消えた魔法使いの少女の影の向こうに彼が見つけたもの。それは路地の暗闇に身を潜め、じっとこちらを窺う怪しげな芸能マネージャー、スズキ・ヒトシの姿だった。
「おい、待て! そこで何してる! あの女の子をどこへやった!」
考えている暇はなかった。黒田は全速力で駆け出していた。それを見たスズキはひらりとトレンチコートの裾を翻し、路地裏の闇の中へと消えた。黒田はその闇の中に飛び込んでいった。後に残ったのは、無人の広場に残るしんとした静寂だけだった。
「……黒田、そろそろ交代だぞ。おい、黒田?」
仮眠から目を覚まし、待機場から出てきた畠中は、構内に黒田の姿が見えないことに気が付いた。パトロールの札は出ていない、書き置きもない。畠中は怪訝な顔をして半開きになった入口の扉を見つめた。その先には、終電間近の賑わいを見せる広場の光景が広がっている。ほろ酔い気分のサラリーマンたちのふざけた笑い声、人混みでごった返すJRの改札前——だがそこに黒田の姿は無い。
「あいつ……どこに行ったんだ?」
一人残された畠中は軽く欠伸をした。まあ、コーヒーでも買いに行ったのだろう。それとも、さっきキツく言いすぎてヘコんでいるのか。戻ってきたら少し慰めてやろう……。畠中はそんな他愛ないことを思いながらカウンターに肘をついた。だが黒田は戻ってこなかった。その浅はかな想像は、畠中を終生苦しめることになった。