三鷹駅に着くと、僕とエリシアは改札を出て南口の商店街を下った。浅草橋駅から乗った総武線の各駅停車は驚くほどガラガラで、僕たちは終点に到着するまでずっと座席に座ったままでいられた。
高円寺を過ぎると、ビル街ばかりだった車窓の風景も変わり、暗く平坦な家々が並ぶ西東京の夜景が流れていった。そんな風景をぼんやり眺めていると、ガラスの向こうを中央線特別快速の満員の車体が追い越していった。
帰り道、僕とエリシアは何となくずっと黙ったままでいた。喋ることが無かったというよりは、お互いに一日の疲れがどっと出て無言になってしまったのだ。ICリーダーにカードをかざし、ピッという音と共に改札の扉が開くと、彼女は目を丸くして驚いていた。魔法使いのような姿をした彼女が、そんな風な反応をするのは何だか面白かった。
「ちょっと待ってて。今クッション出すから」
部屋に帰るとすぐ、僕は荷物を下ろしてエリシアをリビングに案内した。8畳横向きの長方形のリビングには、奥の方にシングルサイズのベッド、中央にはコタツ兼用のローテーブルを挟んで、テレビ台と座椅子が置かれている。起き抜けのまま出てきたせいで、ベッドの上では毛布と布団がぐちゃぐちゃになったままだった。
僕はクローゼットからビーズクッションを出してローテーブルの反対側に置いた。それは僕が実家から持ってきた数少ない僕の持ち物の一つだった。エリシアはこくんと頷くと、衣服の入ったバッグを床に置いてクッションの上に腰を下ろした。正座の体勢から脚を横に広げて足の裏を見せた、いわゆる『女の子座り』というやつ。エリシアは『座ったけど、それからどうすればいいの?』と言いたげな困ったような表情で僕を見上げた。
「……テレビでも見る? 今なら何か面白い番組でもやってるかも……」
僕は沈黙にも耐えきれずにテレビを点けた。パッと画面が明るくなると、エリシアの背後で『ワハハ』という大きな笑い声が聞こえた。エリシアはぎょっとしたように後ろを振り返り、ディスプレイに映った映像をまじまじと見つめた。
エリシアはクッションからお尻をどけると、膝立ちのまま僕の隣に移動してきて、そのままちょこんと腰を下ろした。え、そうなるの? 僕は自分で思ってもみなかった結果に驚き、テレビの内容などそっちのけで隣に座ったエリシアを凝視してしまった。
肩先が触れ合うほど近くに座ったエリシアの胸元で、白いブラウスにシワを寄せるほど豊かな膨らみが見える。そしてその下に、うっすらと下着のようなシルエットが見えたところで、僕は慌てて視線をテレビに戻した。
「はは、結構面白いね、これ」
テレビの中では設定のリアルさで評判のトリオ芸人が、すれ違い系のコントを演じていた。AはBと思い、BはAと思い、後から合流したCはAがAと、BがBだと思って混乱するような筋書きだ。三人が三人とも勘違いを続け、話は全く噛み合わず、観客の代弁者であるCのツッコミが笑いを誘う。画面の中では笑いどころが訪れるたびに後付のガヤがインサートされたが、彼女は『どこが面白いんだろう?』というような微妙な顔を浮かべたまま、ピクリとも笑わなかった。
「あ、なんかごめんね。やっぱつまんないよね、こういうのって……」
言葉の意味が分からなければ笑えるものも笑えない。僕は今まさに起きつつある深刻なすれ違いに危機感を覚えてチャンネルを変えた。すると、今度は急に男女がベッドで抱き合っているドラマの映像が映し出された。
『ねえ、好きって言って……』
『ああ、ぼくはきみが好きだよ……』
心臓が口から飛び出るかと思った。速攻でテレビを消し、恐る恐る横を振り返ると、そこには僕と同じように顔を真っ赤にして固まっているエリシアの姿があった。
「そうだ、お風呂! お風呂にしよう、あと洗濯!」
僕はやにわに立ち上がって言った。悠長にテレビなんて見てる場合じゃなかった。すっかり忘れていたけど、エリシアには明日の着替えがないのだ。さっさと洗濯機を回して干さなければ、朝に着るものが無くなってしまう。
「エリシア、こっち来て。お風呂の使い方教えるから」
エリシアはさっきのベッドシーンの余韻が冷めやらぬ火照った顔をしながら、こいこいと手招きする僕の後をついてきた。
「えーと、脱いだらここに入れて。シャワーの出し方はこう、ここは弄らなくていいから。こっちがシャンプーでこっちがボディソープ。お湯の設定温度は……」
実演を交えながらお風呂と脱衣所の設備を一通り案内し、僕はクローゼットから寝間着を持ってきてエリシアに渡した。それはあまねが買ってきた下着と同じ、ファストファッションの薄手のスウェットだった。『ゆったりめの服を着させてあげて』と言われたけど、体格差のあまりない僕とエリシアでは問題ないだろう。
「洗濯機の使い方は……分かんないよね」
僕は脱衣所に置かれた洗濯機の操作パネルを見ながら諦め混じりに言った。そこにはアイコンもない『開始』や『停止』のようなシンプルな文字ボタンだけが並んでいた。水量やコースの選び方もこれではきっと分からないだろう。
「じゃあ、他に何か分からないことある?」
「………」
畳んだ寝間着にバスタオル、下着類の紙袋、その上には新品の歯ブラシと歯磨き粉。そんな即席の『お泊りセット』を菱餅のように重ねて持ちながら、エリシアはなぜか何も言わずに僕をじっと見つめてきた。イエス・オア・ノー。何か……言ってほしい。
「あ、もしかして湯船に入りたい? ごめんごめん、ちょっと待って今洗うから」
僕はパッと閃いて浴室に引き返した。なるほど、きっと彼女はゆっくりとお湯に浸かりたいのだ。やっぱり女の子はシャワーよりお風呂が好きなんだな。僕は水垢の付いた浴槽をたわしでゴシゴシとこすりながら一人でうんうんと頷いた。
「これでよし。すぐに沸くよ、その間に体を洗ってればいいから」
給湯ボタンを押して脱衣所に戻ると、エリシアはニヘラッとした変な顔を浮かべていた。確かに、人の家に泊まりに行っていきなり『お風呂に入りたい』と言い出すのは気が引けるだろう。
『さすがトモヤさん! 気遣いのできる男の人ってボク、憧れます!』
脳内シアターでヒナタがきらめき顔で称賛をくれる。よせやい、恥ずかしい。
「で、他に何かある?」
「………」
一仕事を終えて改めて尋ねると、エリシアはまた無言で僕をじっと見つめた。気のせいか、さっきよりも気まずい雰囲気が増している。
「あ、床暖房? 床暖房はまだいいんじゃないかな。まだそんなに寒くないし」
「………」
「え、柔軟剤? ううん、要らないよ。これ、ジェルボールだから」
「………」
「め、メイク落とし? うわー、そうか。ごめん。いやー、でも持ってないな……。待てよ、母さんが昔泊まりに来た時の残りとか、どっかにあったかも……」
——スタッ。脱衣所の棚をガサゴソと漁っていると、突然エリシアが『お泊りセット』を床に置いた。そしてぎゅっと目を瞑り、ガバッと胸のブラウスのボタンを外し始めた。
「きゃあっ!」
僕は戸棚から取り出したシャンプーハットとバスボムをその場に投げ捨てて叫んだ。
「ちょ、ちょちょちょっと待って! いきなり何してんの君!」
僕は慌ててエリシアの手を取って止めた。展開が速すぎるうえに何か方向性がまずい! このままではヒナタの語った通りになってしまう。いや、なんでだよ! 僕はただ充実したバスタイムを提案していただけなのだ。紳士と入浴の神に誓ってやましい気持ちなど一切ない。そう、僕はただ、彼女にいいお風呂を……。
「わたし、トモヤ、いっしょ……?」
「は?」
エリシアは胸のボタンに手を掛けたまま、紅い瞳をうるうると潤ませた。僕は思わず目を点にした。いっしょ? 僕とエリシアの何が一緒だって? もし仮に一緒なことがあったとして、なぜそんなに恥ずかしそうにするのだろう。
「お、おふろ……」
エリシアはサッと顔を伏せて浴室を指差した。その先にはじゃばじゃばとお湯が溜まっていく浴槽があった。そこで僕はようやく彼女の言わんとすることを理解した。『トモヤ、わたしたち、一緒にお風呂に入るの?』——彼女はそう言っているのだ。
「………」
僕はただ黙って脱衣場を出ていった。バタン——。僕のすぐ後ろから、やけに大きく寒々しい扉の音がする。僕は閉じられた扉を背にへなへなとその場に座り込んだ。
『トモヤ……』『トモくん……』『トモヤさん……』
膝を抱える僕の脳内シアターに、あまね、ユキ、ヒナタの顔が並ぶ。怒りに燃える目、悲しみにくれる目、とにかくウキウキした目。三者三様の感情を目に宿した彼らが一斉に口を開いた瞬間、僕は脳内映像をミュートした。スクリーンには、僕に詰め寄って好き勝手なことをまくしたてる三人の無音の映像が流れている。
「アホか、俺は……」
僕はがっくりと肩を落とした。『何か質問ある?』という僕の問い掛けにエリシアが何も言わなかったのは、言いにくいことがあったからではなく、『ないからさっさと出ていってくれない?』ということだったらしい。
いや確かに、これからお風呂に入るっていう話をしてる時に、『お前いつまでここに居るんだよ』というツッコミは入りそうだけど。でもそうならそうと——。
「……言えたら話は早いんだろうな」
何度目だろう、僕はエリシアと言葉が通じないことをひどくもどかしく思った。もし今日、ここに泊まりに来たのがあまねだったとしたら、あいつは僕の言葉なんて待たずにさっさとシャワーを浴びて、今ごろは勝手にベッドで寝こけていることだろう。
僕としてはそっちの方が気が楽でいいけど、エリシアはそういうタイプではないのだ。さっきみたいなことはこれから何度だって起きるだろう。だからと言って、いつまでもテレパシーで会話しているわけにもいかない。なぜなら、僕たちは彼女の素性を確かめて、然るべき所に送り届けなければいけないのだから。
その時、背にした扉の向こうから、するするという微かな衣擦れの音が聞こえてきた。それはエリシアが服を脱いでいる音だった。ゴクッ——。僕は思わず唾を飲み込んだ。
今、この薄い扉一枚隔てた向こう側でエリシアが服を脱いでいる。裸のエリシア——それは僕が今まで目にしていたどの彼女とも違う、文字通り一糸まとわぬ姿だ。僕は彼女が身につけている衣服を一枚一枚取り外していき、裸になっていく光景を想像した。
——彼女は後ろ手にブラのホックを外し、肩をよじってブラ紐を片方ずつ外す。
——そこには、僕が布越しに見つめていた、彼女の大きな裸のおっぱいがある。
また声が聞こえた。そのソリッドさは変わらずとも、今度は明らかに僕の声だった。僕は自分の考えることのしょうもなさにウンザリして頭を振った。扉の向こうからはザアッという水音が聞こえてきた。エリシアがシャワーを浴び始めたようだった。
「まあ、Cくらいかな……」
僕はヒナタがやっていたのと同じ『怪獣ポーズ』の手を作り、その中に収まる——もしくは収まらない——ソフトボールくらいの丸い物体を想像した。ところで、Cってどれくらいなんだろう。わしゃわしゃと手を揉みながらスマホを取り出すと、メーセージの通知が来ていた。やれやれ、あまねかな——そう思った差出人は、僕の母親だった。
『友哉へ。こんばんは、お元気ですか。夏休みは楽しかった? 8月の試験は残念だったけど、11月の試験では残りの科目が取れるといいですね。友哉は昔からやればできる子だってお母さんは分かってるので、心配はしていません。今は季節の変わり目だけど、風邪を引かないように気を付けてください。お父さんも寂しがっているので、たまには帰ってきてください。追伸:今度お父さんの新しい本が出るそうなので、献本されたら送ります』
「……なんでこんな時に、こんなの送ってくんだよ」
僕はその古めかしい手紙のように長い母親からのメッセージを流し読みし、スマホを閉じてベッドに思い切り放り投げた。スマホは布団の上を跳ね、ゴツンと壁にぶつかって毛布の陰に隠れた。隣の人に聞こえたかもしれない。知ったことか、と僕は思った。
「分かってんだよ、そんなこと……」
僕はその向こうに居る母親に——ここに居る僕に——言い聞かせるように呟いた。膨らみかけていた淡い期待がスッと萎んでいった。通知欄から開いたために、自動的に開封マークが付いてしまったことも僕を憂鬱にさせた。僕は床から立ち上がり、キッチンに行って冷蔵庫を開けた。
水すら入っていない空っぽの冷蔵庫を覗きながら、僕は一体何をやってるんだろうと思った。東京に出てきてから半年、僕の人生は何一つ進展していない。そもそも進むべき道筋が見つからないのだ、高認に受かったところで何が変わるというのだろう。それは何のための資格なのだ?
僕は毎日ラボに入り浸って遊んでいる自分自身に嫌気が差した。僕と似たような素性を持つラボのメンバーたちでさえ、少なくとも僕よりは将来に対する展望というものがある。あまねはITのスキルがあるし、ヒナタはバイトをしている。ユキはちゃんと高校に通っている。本当の意味で何も無いのは僕だけだ。母親からの長いメッセージはいつも、僕がそんな痛みを忘れかけた頃に届いた。
僕は冷蔵庫の扉を開けたまま、水道に行ってコップに水を汲んだ。そしてそれを一気に飲み干した。溢れるほどめいっぱい注いだのに、喉の渇きは治まらなかった。空っぽのコップを洗いながらキッチンの壁を見つめていると、僕は突然自分がどこに居るのかが分からなくなった。
気が付くと、僕の足元には底の見えない暗闇が広がっていた。それは立っていると静かに沈んでいくような、緩慢な黒い泥の溜まりだった。僕の足はもうすでに足首の上くらいまで浸かっていた。前に見た時はどれくらいだっただろう。
『——いーじゃないですか。お金持ちの特権なんですから』
『——でもさ……わたしの行ってる高校、普通とはちょっと違うから』
『——帰っても誰も居ないなんてサイコーじゃん。あー、うらやまー』
誰かの無責任な言葉がリフレインする。彼らの目には映っているのだろうか? 僕の足元を満たすこの深く暗い川が。今の僕はここに居る。だが『ここ』とはどこだ? 栃木じゃない。なら東京か? 三鷹か、それとも秋葉原か? 違う。そんな言葉じゃ『ここ』は表せない。今の僕はどこにも居ない。僕と呼べる存在は誰の目にも映っていない。僕を表す言葉は誰も——僕自身さえ知らないのだから。
『ねえ、トモヤはさ……』
また誰かの声が暗闇に響く。やめろ、何も言うな。それを表す言葉は無いんだ。
『どうしてここに居るの?』
「トモヤ?」
どれくらいそうしていただろう。ハッと目を開けると、すぐ横にエリシアが立っていた。彼女は紅い両目を心配そうに細め、眉を寄せて僕をじっと覗き込んでいた。水道の水は垂れ流しになったまま、ザバザバとコップの口から溢れ出し続けていた。
「あ、ああ……ごめん。もうお風呂出たんだね、気付かなかったよ……」
僕は慌てて水道の水を止めてコップを水切り台に置いた。エリシアは何かを言おうと唇を小さく開いたが、すぐにキュッと結んだ。銀色の髪はしっとりと水に濡れており、乾いていた時のふわふわとしたボリュームを失ってはいたが、波打つ形はそのままだった。
「僕もすぐ入るよ。洗濯は先にした方がいいかな、僕のも一緒に……あっ」
開けっ放しだった冷蔵庫の扉を閉めようとしたその拍子に、僕の手がエリシアの胸先に触れてしまった。長く自失していたせいで、僕は彼女との距離感を掴めずにいたようだった。エリシアは思ったよりも僕の近くに立っていた。手を伸ばさなくとも届く、そんなとても近い場所に。
「あ……」僕の腕が胸を掠めると、エリシアは小さな声を上げて僕から一歩離れた。
「ご、ごめん! そんなつもりじゃなかったっていうか……うわっ!」
バタン! 思わず後ずさりした途端、足が滑った。僕は咄嗟に冷蔵庫の扉に掴まろうとした。だがその手はすり抜け、僕は後頭部をキッチンの壁にしたたかにぶつけた。
キイン——。目眩がするほどの鋭い痛みが、一瞬遅れて襲ってきた。
「ああ、痛って……」
それは冷たいアイスを食べた時のような、突き刺す痛みだった。僕は後頭部を手で押さえながら目をぎゅっと瞑り、その痛みが過ぎ去るのを待った。
「トモヤ!」
瞼の向こうで、エリシアの声が聞こえた。僕はそれがすぐに過ぎ去って消える一時的な痛みだと思っていた。だがそれは僕が思うより遥かに長く続く強い痛みだった。
「トモヤ……いたい?」
不安そうな声に薄目を開けると、そこには膝をついて僕を見つめるエリシアの姿があった。僕の言葉を真似したのだろうか。『痛い?』——エリシアはそう僕に言った。
「ううん、平気だよ、僕は。痛くないよ、こんなのは……」
本当はとても痛かった。でも僕はそう言うわけにはいかなかったのだ。
「ありがとう、エリシア。もう大丈夫だよ……本当に」
僕が立ち上がろうとすると、エリシアはサッと僕の手を取った。その突然の行動に僕は驚いた。彼女の手は僕の手よりずっと小さく、指は細く、爪先は違う色をしていた。
「トモヤ、ありがとう。わたし、うれしい。トモヤ、いっしょ。でも、トモヤ、いたい、わたし……うれしく、ない」
エリシアは僕の手を握って一生懸命に言った。それは彼女が今まで発した言葉の中で一番長い言葉だった。『トモヤ、ありがとう。わたしはトモヤと一緒に居られて嬉しい。でも、トモヤが痛いと、わたしは嬉しくない』——そう言った彼女の両手はとても温かく、水に濡れて冷えた僕の指先をじんわりと温めてくれた。
「エリシア……」
まるで魔法のようだ、と僕は思った。銀色の髪に紅い瞳——そんな幻想的な彼女の姿を前にすると、僕が抱える現実の痛みも息苦しさも、その本来の切実さを失ってしまうかのようだった。彼女の言葉はとても短く拙かった。でもそれは確かに僕を癒やしてくれた。痛くないという僕の嘘は、本当に変わっていた。だからきっと、それは僕にとって本物の魔法だったのだ。
それから、僕は湯船に浸かってひとり物思いにふけった。空っぽになった手のひらを見ていると、次第にさっき触れたエリシアのおっぱいの感触が蘇ってきた。『触れた』と言っても手のひらで触ったわけではなく、ただ手の甲が掠めただけだ。ほんの少しだけ。
「C……いや、D……?」
初めて触ったエリシアのおっぱいは思ったよりも硬かった。見た目からもっと水風船のようにぽよぽよしたものだと想像していたけど、実際はソフトテニスのボールくらいの弾力があった。ブラをつけていることも関係しているのかもしれない。
僕は今さらになって、あまねが買ってきたエリシアの下着セットの中身を見なかったことを後悔した。『買ってくる』と言って、実際に買ってきたところを見ると、あいつは普段から自分の服や下着を自分で——自分のお金で——買っているのだろう。
僕が広場でチラ見したあの白いブラも、ああやって買ったものなのだろうか。僕はあまねがいつも着ている、ダボダボのパーカーとショートパンツを脱いで下着姿になるところを想像した。やっぱあいつも、ブラを見られたら恥ずかしいとか思うのかな……。
『当たり前じゃん。あたし、女の子なんだよ』
フッと、あまねの声が聞こえた。浴槽にもたれた僕の背中に、彼女のブラ紐の硬い感触が蘇る。僕はハッと目を開けて——閉じてなどいないが——その妄想から覚めた。そしてクラクラするほど激しく頭を振った。ズキッ——。また後頭部が痛んだ。
「な……何考えてんだ、俺は……」
僕は思わず身震いするほどの寒気を感じた。エリシアのおっぱいを見逃したからって、あまねの裸を妄想するなんてどうかしてる。あいつは……そういうんじゃない。
「だって猫だし……」
変に意識したせいで、次に会った時に気まずい雰囲気になるのも嫌だった。僕は邪な妄想を散らすように目を閉じて湯船に沈んだ。すると、今度は瞼の裏にエリシアの姿が浮かんできた。それは僕がさっき扉を背に想像していた、ブラを外す彼女の姿だった。
——彼女は後ろ手にブラのホックを外し、肩をよじってブラ紐を片方ずつ外す。
——そこには、僕が布越しに見つめていた、彼女の大きな裸のおっぱいがある。
それはとてもリアルな想像だった。だがあまねと違って、恥ずかしい気持ちにはならなかった。僕はその甘い想像に含まれながら、彼女のおっぱいの色や形さえ見ることができるのに、あまねのこととなると、妙に恥ずかしくてたまらない気持ちになるのだ。
あまねとエリシアで、何が違うんだ。ゴボゴボという泡音が響く温かな水底で、僕は僕の知る二人の正反対な女の子の違いについて考えた。でもその答えを導き出すにはあまりにも時間が足りなかった。僕はすぐに息が苦しくなり、ザバッと水面から顔を出した。
「エリシア?」
風呂から上がってリビングに戻ると、エリシアの姿が見当たらなかった。部屋を見渡すと、ベッドの上に見慣れない塊が横たわっているのを見つけた。近づいて見ると、それはエリシアだった。彼女はこちらに背を向け、目を閉じて静かに寝息を立てていた。
「寝ちゃったのか……疲れたのかな、やっぱり」
結局、ヒナタの予言は当たったようだった。僕はスマホを拾って脱衣所に戻った。さっさと洗濯機を回さなくては。二人分の衣服が入った脱衣カゴをひっくり返す時、僕はふとこんなことを思った。まあ、どうせ干す時に見るんだし——。
「無罪!」
だが、そこにはブラと呼べる物は無かった。カゴの中に入っていたのは、胸の部分が厚い布で補強された、白いキャミソールのような下着だった。肩紐も細く薄く、布越しに透けて見えるような目立った形でもなかった。
『——ブラ、ちゃんとつけてるみたいでしたから』
「……あの野郎」
エリシアのキャミソールを手にヒナタへの復讐を誓っていると、ふと脱衣所のゴミ箱に何かが捨てられているのが目に入った。拾ってみると、それは破られた下着のパッケージだった。そこには白黒の女性モデルの写真と共に、『D』の文字が書かれていた。
「これは……」
——ピコン。セーフかアウトで言えば限りなくアウトに近いセーフ。そんなセルフジャッジを下して打席を去ろうとする僕のポケットで、新たなメッセージが着信した。
『家ついた? 無罪証明にエルシィの写真おくれ』
それはあまねからのメッセージだった。僕はそのあまりに飾り気の無い文面を見て、なぜかふっと力が抜けてしまった。ちょうどいい。たった今、無罪判決が出たところだ。僕はそのままベッドに行って、寝ているエリシアの顔を写真に撮って彼女に返信した。まるで天使のように綺麗な寝顔だった。あまねからの返信はすぐに戻ってきた。
『は? ふつーに有罪なんだけど。なにしてんの?』
僕たちとエリシアの騒がしい一日はこうして終わった。