黒田聡が警察官になった理由はとても単純だった。彼は子供の頃から警察官という職業に対する強い憧れがあった。彼は『仮面ライダー』や『ウルトラマン』のような特撮ドラマの熱心なファンであり、いつしか自分もテレビの中のヒーローのような大人になりたいという夢を抱くようになった。
生まれつき人よりも体格に恵まれていた彼は、高校時代からボクシングを始め、大学時代は総合格闘技のセミプロとして活動していた。ヒーローになるには強くなくてはいけない——彼はそんな子供っぽい信条をずっと胸に抱きながら生きてきた。
就職活動を控えた大学3年生の冬、黒田は試合を訪れた芸能事務所のスカウトから『スタントマンにならないか』と誘いを受けた。渡された名刺の会社のWebサイトを調べると、そこには有名な特撮作品のスーツアクターの業務実績も載っていた。
その時、黒田の心はひどく揺れた。子供の頃からずっと憧れていた『ヒーロー』に俺も成れるのかもしれない。だが彼はその道を選ばなかった。彼はフィクションの中で活躍する偽物のヒーローではなく、現実の街の中に存在する本物のヒーロー、警察官になることを選んだ。彼は採用面接の場でその正直な想いを言葉にして語った。彼のその真摯な物語りは、人事部の老いた面接官たちの心にいたく響いたようだった。
しかし、そんな彼の大きな期待はすぐに外れることになった。警察学校を卒業して地域警察官として任官され、交番勤務の業務をこなすうちに、彼は警察官という職業に強く疑問を持つようになった。
『市民の安全を守る正義の味方』という採用ポスターの標語を見るたび、彼はその字面の虚飾に辟易とするようになった。彼が想像していた警察官は、より多くの人々から信頼され、感謝や労いの言葉を掛けられる尊敬されるべき職業だった。
だが実際に彼を待っていたのは、守るべき人々から疎ましく思われ、感謝より文句ばかりを投げつけられる惨めな毎日だった。ブルーのポリスジャケットを身につけ、拳銃と警棒を装備した彼らの大きく膨らんだ体の形は、休日を過ごしに秋葉原にやってきた観光客たちの目に、ひどく異質で邪魔な姿に映った。
インターネットで様々な情報が共有されるようになったこの時代、警察官に対する信頼や尊敬は地に落ち、『警察=悪』という図式さえ定着していた。疑わしく、本来は取り締まるべき連中にさえ、いいように舐められ、警察官としての自分の言葉が誰にも届かないという辛い現実を、黒田はうまく受け入れられなかった。
シノノメ・ジューゴの言葉は、そんな黒田の奥底に眠っていた何かを呼び覚ましてしまったようだった。あの男が何者なのかは知らない。あの言葉もきっと、単なる酔っ払いの戯言に違いない。だがそれでも、黒田はあの男の言葉の持つ奇妙な力強さに背を押され、どこかとても深い場所へと引き寄せられていた。
『見て見ぬふりかよ』——そのほんの一言が引き金だった。それは彼が警察官として浴びせられたどの罵声よりも深く、彼の心を傷つけた。違う! 俺は——違うんだ! 彼はシノノメ・ジューゴの言葉の残響を振り払うように、夜の街を駆け抜けていった。
「クソッ、どこに行った!」
黒田は悪態を吐きながら深夜の街角で立ち止まった。駅前広場から離れ、中央通りを横切り、宛もなく東へ走った。スズキの姿はどこにも見当たらない。それどころか、あの暗く細い路地を抜けた後、黒田は誰ともすれ違うことはなかった。
彼はふと、自分が見覚えのない場所に立っていることに気が付いた。距離的にはもう、秋葉原と呼べる地域ではないだろう。彼は自分が今、どこに居るのかが分からなかった。黒田はキョロキョロと道路標識や住所看板を探した。しかし、なぜかそのビルに囲まれた薄暗い通りには、文字と呼べるものが一つも見当たらなかった。
(あのスズキとかいう男……やっぱり嘘を吐いてたんだ……)
スズキ・ヒトシとワタナベ・タダシ——芸能事務所のマネージャーを名乗る怪しい二人組。佐々木から聞いた曖昧な疑念は、実際にあの二人と対面して確信へと変わった。やはり、あの男たちはまだ本来の仕事を終えてはいなかったのだ。嘘吐きどもが——。
(あの子も……あそこで何をしてたんだ? 一人で、ポツンと立ってて……)
静まり返ったビル街の合間で、黒田の脳裏にあの美しい少女の姿が浮かんだ。銀色の髪に紅い瞳、とんがり帽子に黒のローブ。その少女は、誰もがひと目で魔法使いと分かる姿をしていた。遠目から目を奪われるほど美しい銀色の髪、そして全身を包む淡い紅色の光。チラッとしか見えなかったが、少女の目はひどく虚ろで、黒田の助けを求めるかのように寂しげな色をたたえていた。彼は『助けて』という彼女の声を聞いた気がした。
(俺が守らなきゃいけないんだ……。俺の他には誰にもできないんだ……)
黒田は決意を新たにした。市民の安全を守るのが警察の役目だ。そして、弱い立場の人を身を挺して守るのがヒーローの役目だ。俺はそれを遂行する。見て見ぬふりなんてしてたまるか。俺は嘘吐きじゃない。あんな奴らを野放しにしておくわけにはいかない。必ず見つけて、問い詰めてやる。嘘を暴いてやる——。
(……居た、あいつだ!)
また一つ路地を抜けて角を曲がった先で、見覚えのあるトレンチコートの裾がビルとビルの隙間に吸い込まれるのが見えた。黒田はその後を追って路地裏の闇へ飛び込んだ。
(……え、あいつは……)
そこは『路地』と呼ぶことすら適当には思えない、ひどく狭い空間だった。薄汚れたビルの壁面には、さらに薄汚れたエアコンの室外機やダクトが取り付けられており、それを点検する作業員が一人でも入れれば十分というような、文字通りの『隙間』だった。
海のように深い暗闇の向こうに、煌々とした紫色の光が見えた。それは紫外線を照射するLEDの誘蛾灯だった。その光の帳の向こうに、黒い人影がチラッと見えた。
(あれは……ワタナベ……か?)
じじ、じじじ。耳障りな放電音を響かせる誘蛾灯の袂に、スーツを着た金髪の男が立っていた。黒田の知るその男——ワタナベ・タダシは、コンクリートの壁面に背をもたれさせながら、憮然とした表情でスマホの画面を見つめていた。
「すみません、ちょっといいですか!」
スウッ——。黒田は乱れた息を整えて歩き出した。誘蛾灯の影が重なり、その表情は窺えない。黒田は大きな声で呼び掛けた。しかし、ワタナベは反応を示さなかった。まるで黒田の声が聞こえていないかのように、ワタナベはスマホの画面を弄り続けていた。
「渡辺さん、ちょっとよろしいですか!」
まさか、こんな距離で自分の声が聞こえていないわけがない。黒田は無視されていることに腹を立て、さらに大きな声で呼び掛けた。
「渡辺さん、ちょっとお話、よろしいですか!」
「……よろしく、ないですねえ」
——カチッ。威圧するように黒田が声を荒げると、ワタナベはスマホを閉じてスーツの懐にしまった。憮然とした表情を崩す気配もなく、その場に黒田が現れたことに対する驚きや、いきなり声を掛けられたことに対する焦りも見せなかった。
「お巡りさん。僕、今上司に怒られてたんです。メールで。なんか知らないけどめっちゃ怒ってて、色々と酷いこと言われてヘコんでました。口に出すのもはばかられるような酷いことです。ねえ、僕がなんて言われたか分かります?」
——スッ。ワタナベは面を上げて黒田に尋ねた。黒田は困惑した。こいつ、一体何を言ってるんだ……。それに、どうして俺が追ってきたことを不思議に思わないんだ……。黒田は目前でピタッと足を止めた。それは恐怖から来る反射的な行動だった。
「人に怒られるのって嫌ですよねえ。何度繰り返しても、ちっとも慣れる気がしません。怒る方は楽じゃないですか。思うがまま、感情のまま、自分がスッキリすることだけ考えて言えばいいんだから。でも言われる側はそうじゃない。怒られると分かってることを、わざわざするような馬鹿はいません。だから怒られる時はいつもこんな疑問が浮かんでくるんです。『何で俺が怒られなきゃいけないんだ』『俺がそんなに悪いことしたのかよ』『お前に俺を怒る権利があるのかよ』……って」
「渡辺さん、あなたにお聞きしたいことがあります。あの魔法使いの女の子のことです。銀色の髪に、紅い瞳——あなたたちが仰っていた、撮影の現場から居なくなった外国人の少女の話、あれは本当のことなんですね? さっきは見つけたと言ってましたが、嘘でしょう? だからまだこんな所に居るんだ。あの子、さっきこっちに来ましたよね?」
「面と向かって怒られるのと、メールで叱責されるのってどっちが嫌ですか? 僕はメールの方が嫌なんですよ。何ていうか……テンションがよく分かんないっていうか」
「あなたたち、芸能マネージャーとか言ってたけど、嘘ですよね、それ。とっくにバレてますからね。どうしてそんな嘘を吐いたんです? 何が目的なんですか」
「文字として残るのも嫌いです。音の言葉はすぐに消えてしまうけど、文字は形として永遠に残りますから。ふとした拍子にそれを見返すと、いつでも嫌な気持ちになれます」
「あの名刺だって、佐々木さんの目を盗んで持って帰ったんでしょう? 失礼なのはあんたたちの方じゃないか。警察舐めてるだろ。おい。いい加減、白状したらどうなんだ?」
「でも時々、文章でも怒るの下手な人って居るじゃないですか。どういうこだわりか知らないけど、『!』を使いたがらない人。全部『。』で終わる人。なんか、笑えますよね」
「嘘なんだろ!」
延々と噛み合わない話を続ける渡辺に、黒田はついに激昂した。じじ、じじじ。黒田の怒号が、誘蛾灯の電流に反応して放電音が鳴った。ワタナベはこくんと頷いた。
「あ、はい。嘘です。でもどうして、いきなりそんなことを言うんですか?」
それまでの朴念仁ぶりが何だったのか、ワタナベは素直に黒田の言葉に応じた。
「言わなくたって分かるだろうが。白々しい、見え透いてるんだよ、全部」
「へえ、どうしてですか? 僕たち、ボロが出るようなヘマはしてませんよ。名刺だってちゃんと作ってもらったし、先輩の話だってよく出来てました。ほら、どこからどう見てもサラリーマンじゃないですか。それ、お巡りさんの勘違いなんじゃないですか?」
ワタナベは振り子時計のようにふらふらと首を揺らし、軽薄な笑みを浮かべながら黒田をジロジロと睨め回した。じじ、じじじ、じじじじ。
「あなたが一人で言ってるだけじゃないですか? 僕たちがいつ嘘だって言ったんですか? 何か証拠でもあるんですか? それともあなたは人の心が読めるんですか?」
「どの口が言ってんだ。お前がさっきそう言ったんだろうが、嘘だって!」
「人が嘘を吐いているかどうかなんて分かりませんよ。こうやって面と向かって話をしていても、すれ違いや勘違いが起こるんです。言葉の裏に隠された真意なんて、当てずっぽうでは当たりません。それを勝手な想像で、言ってもいないことを嘘だと決めつけてかかるのは最低ですよ。そういうのを『人を食ったような態度』って言うんです。街の平和と人々の安全を守る正義の『ヒーロー』を目指す人には、とても相応しくない台詞だなあ」
ワタナベは頬をキュッと上げ、文字通りの満面の笑みを浮かべて黒田に言った。
「そうですよね? 黒田聡さん?」
「な、どうして……俺の名前を……」
黒田はハッと驚き、言葉を失った。俺はこの男と今日、初めて顔を合わせたはずだ。自己紹介をした覚えなどない。なのに、なぜ俺の名前を知っているのだ……。
「大した理由なんてありません。ただスマホで調べただけです。調べれば分かることだから、調べて知っているだけです。聡、いい名前ですよね。頭が良いっていう意味ですよね、確か。僕、頭が良い人は好きですよ。話が早く通じるから」
ワタナベは『ようこそ』と言うかのように両手をサッと両手のひらを見せた。
「ねえ、黒田さん。僕からも聞いてもいいですか? 僕たち、ちょっと知りたいことがあるんです。あー、違うな。死ぬほど知りたいことがあるんです。お時間、よろしいですか?」
ワタナベは不気味な笑みを浮かべたまま、黒田へにじり寄ってきた。一歩、また一歩と距離が詰まるたびに、黒田は息が苦しくなった。おかしい、俺はさっきこいつに話を聞かせろと言っていたはずだ。なのに今は俺がこいつに問い詰められている。一体、俺に何の話があるっていうんだ。どうしてこいつは俺の言葉を意に介する様子がないんだ……。
「正直にお話します。僕たち、とても困ってるんです。与えられた仕事が全然うまくいってなくて、このままだとすごくまずいことになっちゃうんです。だからあなたにも力になってほしいんです。僕、困っている人を助けるのはお巡りさんの仕事だって先生から聞いたんです。ねえ、お願いしますよ。どうか僕たちを助けてください。黒田巡査」
「さっきから何を言ってるんだ! 話を聞いてるのはこっちだ、答えろ!」
「違います。僕があなたに聞いてるんです。早く教えてください、さあ」
「だから何を、言って……」
ワタナベは黒田の言葉を制し、彼の胸をスッと指差した。その先には日本の警察官の証である、金色の旭日章のバッジがあった。ワタナベの指がジャケットに触れた瞬間、黒田はビクッと大きく体を震わせた。
「あの紅目の魔女はどこに居るんですか?」
黒田の眼前、鼻先が触れ合うほどの距離まで顔を近づけ、ワタナベはそっと囁いた。
「お、おい、近づくな、それ以上……」
黒田は反射的に後ずさりした。ワタナベは黒田よりも体格が劣り、そのうえスーツ姿の丸腰だ。本気で組み掛かれば一瞬で押し倒すことができるだろう。だがそんな考えとは裏腹に、黒田の肉体は後ずさりを止められなかった。このまま接近を許せば、胸の奥に秘められた全てを見透かされてしまう——そんな恐怖が冷たい汗となって黒田の背中を流れた。
「やめろ! やめろと言ってるだろ! さもないと……」
黒田は意を決し、腰のホルスターに手を掛けた。だが彼は銃を抜くことができなかった。グリップを握ろうとしたその瞬間、彼の手は圧倒的な力で握りしめられていた。スッ——。振り返った黒田の視界に、ベージュのトレンチコートの襟元がよぎった。
「さもないと……なんですって?」
「『お前を撃つ』——そう言いたいんじゃないのか?」
そこにはスズキ・ヒトシが居た。
「がっ! ああっ!」
いつの間に現れたのだろう。スズキは掴んだ黒田の手首を拳銃から引き剥がし、そのまま背中に沿うようにギリッとひねり上げた。驚くべき手際の良さだった。抵抗も、脱出も、その文字の一画目を思い浮かべるより先に塗りつぶされた。その色は、痛みだった。
「あ、どうも。お疲れ様です、先輩。遅かったですね」
そんなスズキの登場を予期していたかのように、ワタナベはサッと手を上げた。
「馬鹿が。戯言はやめろ。遊んでいる暇はないんだ。さっさとやれ」
「あーあ。また怒られちゃいました。ね、僕の言った通りでしょ、あはは」
ワタナベは両手をぱんぱんと叩きながら軽快に笑った。何だこれは、と黒田は激しく混乱した。ワタナベの楽しげな声が耳に聞こえているその間も、締め付けられた黒田の腕はきりきりと音を立て、軋む関節の痛みはより強さを増していた。彼は今、自分の身に起こっていることが現実の出来事だと信じられなかった。
「さ、お待ちかねの質問タイムに移りましょうか。聞きたいこと山積みですし」
スズキは黒田の背後に張り付いたまま、彼の襟と手首を掴んで拘束した。ワタナベは正面から黒田の顔をじっと覗き込んだ。
「えーっと、お兄さんってどこ住みですか? 彼女とかいますか? 今どんなお仕事をされてるんですか? 休日は何をして過ごされてますか? インドア派ですか、アウトドア派ですか? 尽くされる方が好きですか、振り回される方が好きですか? 犬派ですか、猫派ですか? 綺麗系と可愛い系、どっちが好きですか? あはは、あははは」
激しい痛みに苛まれ、苦悶の表情のまま声もまともに出せない黒田に、ワタナベはふざけた質問をいくつも投げ掛けた。そして大きく声を上げて笑った。それは心の底から面白いものを見ているかのような抱腹絶倒だった。黒田はぼやけた視界からちらつくその男の異常性に目眩がした。こいつら、狂ってる。一体、何がしたいっていうんだ——。
「ふざけるな。これも仕事のうちなんだぞ。さっさと本題に入れ、馬鹿が」
「すみません、すみません。でも、何でも聞けるって思ったら色々と知りたくなっちゃって。だってこの人、これから死んじゃうんですもん。可哀想じゃないですか? ほらほら、先輩も何か聞いとかなくて大丈夫ですか?『後悔先に立たず』ってやつですよ」
死ぬ? こいつら、今『死ぬ』と言ったのか? 可哀想? 誰が——? 黒田は自分を間に挟んで繰り広げられる二人の異様な会話に気が遠くなった。
「ふう、じゃあ本題に。お巡りさん、あなたさっき僕に言いましたよね。『あの魔法使いの女の子はどこだ』って。それね、僕たちも知りたいんです。マジで、ほんっとに」
ワタナベはネクタイの結び目を緩めると、黒田の肩にぽんと手を置いた。
「でね、聡くん——あ、くん付けしても平気? 僕、こう見えて君と同年代でさ。なんか、親近感湧いてて。そういうの大丈夫? そっか、よかった。ね、どう? 聡くん、佐々木さんから何か聞いてない? あの人さ、この人に嘘吐いたじゃん。本当は見たことあるのに、見たことないとか言って。ひどくない? 僕たちめっちゃ困ってるんだよ? 助けてくれたっていいじゃん。そう思わない? え、思う? 思うよね、やっぱそうだよね。うわー、共感してくれて嬉しいわー」
ワタナベはまるで親しい友人と話をするかのように一人芝居を続けた。その間、黒田はただの一言も発することはなかった。彼の意識は二つの強い暴力によって痛めつけられていた。一つは彼の腕をねじり上げた物理的な痛み。そしてもう一つは——。
「聡くんさ、あのおじさんから何か聞いたんでしょ? あの紅目の魔女のこと。ね、頼むから教えてくんない? 俺らさ、あの子見つけて帰らないと仕事クビになっちゃうんだよ。今月の家賃も厳しくてさ、ペットいるのに追い出されそうになってんの。ヤバくない? お願い、一生のお願い! ね、いいっしょ? どうせお前、この後すぐ死ぬんだしさ。後悔とかないっしょ? 言って後悔より、言わなくて後悔のが大きいって言うじゃん、卒業式とかでさ。憧れの先輩にコクったりしてさ。今がそうじゃない? ほら、ユー、言っちゃえよ。言わなきゃ殺すぞ、言っても殺すけど。あはは、あはは」
ワタナベはからからと笑いながら黒田の肩や胸をぽすぽすと軽く殴りつけた。初めは服に触れる程度だったその殴打は、1発、2発と数を重ねるごとにより重さを増し、最後には黒田のみぞおちをしたたかに抉った。
それは運悪くヒットしたラッキーパンチなどではなかった。ワタナベは人体の防御不可能な急所を的確に選び、最小限の力で最大限の苦痛を引き出す術を習得していた。それはとてもシステマティックに体系化された、効果的な拷問の手段の一つであった。
「し、知らない……。お前ら、何の話をしてるんだ……うっ……」
メトロノームのように断続的に訪れる激痛に耐えながら、黒田は必死で言葉を絞り出した。だがワタナベはそんな言葉に耳を貸す様子もなく、黒田を殴り続けた。
「ウッソだー。うそうそ、絶対に嘘。だってちゃんと読んできてるんだから。あのおじさん、あの魔女に会ってんだよ。なのに僕たちに嘘を吐いたの。『そんな子、知りませんねえ』とか言って。ウケる。まじウケる。ほんと——いい加減にしてほしいわ」
ドグッ——。ワタナベの拳が、黒田の脇腹を鋭く抉った。
「どっちに行ったとか、誰と話をしてたとか、何を喋ってたかとか、そういう些細なことでいいんだけどなあ。できるだけ君の言葉で語ってもらえると助かるんだけど」
「何も……聞いてない、本当だ……。は、放せ……お前ら、警察にこんな……」
「先輩、どうです?」
「ああ、嘘だな」
ゴキッ——。即答して、スズキは黒田の肩を外した。ほんの一瞬の力加減だった。
「う、あああ……」
「うっひょー、いい音響かせますねえ。さすが先輩、よっ、名人芸」
スズキは黒田の帽子を払い、むんずと髪を鷲掴みにして跪かせた。心と体——人間の両輪とも呼べる二つを蹂躙された黒田は、為すすべなく地面に膝をついた。
「お前の三文芝居はウンザリだ。マニュアル通りにやれと言ってるだろうが」
「えー、でもマニュアル通りにやってうまくいかなかったら困るじゃないですか。次善の策を残しておくことも大切だって、先輩もよく言ってませんでしたっけ?」
「それもマニュアルに書いてある。お前の考えなど必要ない。時間の無駄だ」
「はいはい、分かりましたよっと……」
ワタナベはつまらなそうに肩をすくめ、膝を折った黒田の前に蹲踞した。
「あの、一応お伝えしておきますけど、ウチの先輩に嘘は通じませんからね。これ以上痛くなる前に、正直に答えた方がいいですよ。今はまだ、あなただけの痛みで済んでますけど、このままだとみんな痛くなっちゃいます。言ってる意味、分かりますよね?」
ワタナベは黒田の頬を両手で摘んで引っ張り、おかしな顔を作って遊んだ。
「家族とか、恋人とか、居るでしょ? あなたにも大切な人が。そういう人の苦しむところって見たいですか? 痛い、嫌だ、やめてって泣き叫ぶ声を聞きたいですか? 僕はやだなあ。悲しくって心が張り裂けちゃいそうになる、って言えって言われてて。あはは」
「お前らが……俺の何を……知ってるっていうんだ……。ハッタリだろ……」
「あ、そういうこと言う? 傷つくわー。冷めるわー。じゃ、証拠みせたげるよ」
ワタナベは大笑いしながら手を振り、スーツのポケットからスマホを取り出した。
「えーっと……。黒田聡、24歳、警視庁秋葉原警察署地域課勤務、階級は巡査。住所は台東区上野**、警視庁の独身寮に一人暮らし。高校時代にアマチュアボクシングでインターハイのベスト8。へー、結構いいとこまで行ってるんだ。で、体育大学時代に総合格闘技に転向。日本スポーツ奨学金機構の優秀学生として表彰までされてる。偉いなー、俺、自慢じゃないけど表彰とかされたことなくて。で、卒業後は公務員試験を受けて警視庁に採用。面接ではこう言ったんだって?『人々の安全を守る正義のヒーローに憧れて、警察官を目指すことにしました』——やべえ、めっちゃかっこいいじゃん。今度真似していい? 俺も、人生で一度くらいこういう決めゼリフ言ってみたいんだよ。嘘だけど」
ワタナベはスマホの画面をするするとスクロールさせながら、そこに書かれた文章の内容を黒田に読み聞かせた。本名のみならず所属や住所まで、ワタナベが口にした黒田についての情報は全てが本当だった。黒田は呆然としながら言葉を失った。
「ふんふん、なるほ。でもさー、君さー、ぶっちゃけ今の生活に満足してる? ほら、公務員って給料低いじゃん? 未だに年功序列だし。上司は頭固いし。やっぱその社長さんの言う通り、スタントマンになった方がよかったんじゃないの? 君のことえらく気に入ってたっぽいし。ホイホイ従ってれば、芸能界でもいいとこまで行けたんじゃない? だって君、そのおじさんとしばらく付き合ってたんでしょ?」
黒田はワタナベが言った言葉に思わず耳を疑った。それは黒田が誰にも言ったことのない彼の秘密だった。警察官としての公的な経歴のみならず、なぜそんな大学時代の個人的なことまで知っているというのか。黒田は恐怖と羞恥に体がカッと燃えるように熱くなり、すぐに奈落の外に突き落とされたような絶望感に打ちひしがれた。
「まあ、それはどうでもいいよ。結局人ってさ、大事なのは心じゃん? 僕は君の心を知りたいんだよ。正直に話してくれれば生きて帰してあげるよ。今の彼氏さんトコに」
「お前、何で……そんなこと知ってるんだ……。そんなこと、誰にも……」
「え? だってそう書いてあったし。見れば分かるよー。めくら9)じゃないんだし」
「書いて……あっただと……?」
「まあまあ、それもいいからさ。そろそろ口割ってくんないかなあ。君は死ぬって決まってるけど、君以外は別に死ぬ必要ないじゃん? 省エネでいこうよ、タイパも重視してさ。僕たちも怠いんだよ、君の次にまた別の奴を捕まえるの。一応、君がダメならこいつってことになってるけど」
ワタナベは小さく溜息を吐いてスマホの画面を裏返した。そこには交番に居る畠中の顔写真が映っていた。佐々木さんの勘はやっぱり当たっていたんだ。こいつらはマトモな人間じゃない、人を平気でいたぶって楽しむような異常者だ。そんな連中が一体なぜ、魔法使いのコスプレ少女を探しているというんだ。捕まえて、何をするつもりだというんだ。黒田は自らが浮かべた恐ろしい想像に戦慄した。
「えーと、聞こえてます? 聞こえてますよね? 今さらマイクトラブルとかありませんよね? もしもーし、ハロー、トラトラトラ、応答してくださーい」
ワタナベは黙りこくった黒田の耳を摘み、口を近づけて囁いた。黒田はその気味の悪さに反射的に目をぎゅっと瞑った。だが、ワタナベの声は彼の奥深くに響き渡った。
「もう夢や高望みはやめます。やっぱり人生、現実を見ることも大事ですから。一言だけでいいです、本当に一言だけ。だから言ってるじゃないですか、ヤバいって。このまま成果ゼロで帰ったら、僕たち上司に殺されちゃうんですよ。そういう厳しい職場なんです。分かるでしょ? 警察と似たようなものですよ。この国の安全を守る大切なお仕事」
ワタナベは黒田をいたぶるようにわざと耳元に口を近づけて喋り続けた。その間もスズキによる拘束は続き、黒田はピクリとも体を動かせなかった。黒田はすぐ先に迫った自分の死期を悟った。すると、彼の胸の奥底から言葉にできない恐怖と不安が湧き上がってきた。死ぬ……? 俺はここで……殺されて死ぬのか?
「だからさ、何か言えって言ってんじゃん。何で黙ってんだよ。いい加減にしろよ」
深く項垂れたまま無言を貫く黒田に、ワタナベは苛立ったようにパチパチと頬を叩いた。だが黒田はそれにも反応を見せなかった。ワタナベはついに大声を上げた。
「何でそんな簡単なこともできねえんだよ、お前は! 人の言うことはちゃんと聞けって学校で教わっただろうが! ホモのうえに低能なのかよ、お前は! ああ!?」
バチッ——。火花が散るような痛みが黒田の側頭部に走った。続いて、目眩がするほど激しい耳鳴りが彼の意識の全てを支配していった。ワタナベは強く握った拳で黒田の耳やこめかみを音が鳴るほど何度も殴打した。もはやそれは拷問の一部ではなく、単なる憂さ晴らしにすぎなかった。だがそれでも黒田は口を割らなかった。
「……ダメっすね。先輩、これもう無駄っぽいです。やっちゃってください」
無言で頭を垂れる黒田を見て、ワタナベは脚を崩して立ち上がった。ワタナベの手の甲は赤く腫れていた。スズキはそんな彼に、無言で失望の眼差しを向けた。
「化物……め……」
黒田は全てを諦め、眼前に在る『何か』を表す最も適当な言葉を口にした。
「化物? 酷いなあ。人を化物呼ばわりするなんて。人の痛みが分からない人?」
ワタナベはそんな黒田の悪態にも怯まず、両手の指をボキボキと鳴らしてストレッチをした。それはこれから彼に対して行う『儀式』に必要な準備だった。
「じゃ、先輩、よろです」
それを合図に、スズキは黒田の首に腕を回して反対の手でロックを掛け、そのまま切り株を引き抜くようにぐいっと後ろに持ち上げた。ワタナベは蜘蛛のように広げた手のひらを黒田の顔面に載せ、完全に目を覆い隠した。
「ぁ………」
一瞬にして締め上げられ黒田の気道から、声にならない声が漏れた。80キロ近い彼の体は、たった一人の男によって軽々と持ち上げられ、今まさに絶命しようとしていた。
「あーあ。この顔ともおさらばか。結構、便利だったのにな……捕まえる時とかさ」
「……おい」
背後のスズキがうんざりしたように声を出した。大柄な大人の男をその腕で持ち上げ続けているというのに、苦しさや疲れのようなものは微塵も感じられない。
「任務中に無駄口を叩くな。さっさと剥がせ」
「あ、はい」
ワタナベは残念というように気のない返事をして、黒田の顔を覆う手の指に力を入れた。黒田の視界は手のひらによって遮られ、何も見えなくなった。それと同期するように彼の意識は薄れていった。その手はまるで深い井戸に蓋をするように、黒田という人間の全てを覆い隠していった。
(佐々木さん、すみません——)
黒田は朦朧とする意識の中、佐々木のことを思い出した。どうしてこんなことになったのか、彼自身も分からなかった。さっきまで自分は生きていて、自分のやるべき仕事を遂行しようとしていた。シノノメ・ジューゴに言われた『見て見ぬふり』をせず、警察官としての正義を全うしようとしただけなのだ。なのに次の瞬間には——死んでいる。黒田聡という存在は、永遠にこの世界から失われてしまう。死にゆく彼自身さえ、その意味を正しく理解することはできなかった。
(ああ、ちくしょう、死にたくない——)
今さらになって黒田はそんなことを思った。しかし全ては手遅れだった。彼のそんな意思とは無関係に、酸素の供給を絶たれた脳は徐々にその機能を喪失しつつあった。腕と脚は糸の切れた操り人形のようにだらんとぶら下がり、激しい耳鳴りによって何も聞こえなくなっていった。そんな黒田の脳裏に、あの銀髪の少女の幻影が浮かんだ。銀色の髪に紅い瞳、とんがり帽子に黒のローブ。佐々木の語った言葉通りの魔法使いの少女は何も言わず、虚ろな紅い目で、世界から消えていく黒田を見つめていた。もし、と黒田は思った。
もし、魔法が在ったなら……。もし、あの少女が本物の魔法使いであったなら……。
俺は死なずに済んだのか——? そんな彼の想像は、現実にはならなかった。
(……え?)
顔を掴まれた指の隙間から、微かに人の顔が見えた。だがそれはワタナベの顔ではなかった。金髪にキツネ目——彼が知るワタナベの特徴はその人間には当てはまらなかった。そして彼はそれが誰かを知っていた。
「『化物』というあなたの言葉、ありきたりだけど間違ってはいませんよ。人に化ける存在を化物と言うのなら、僕は確かに化物です。さようなら、黒田聡さん——だった人」
それが彼が最後に聞いた言葉になった。死んでしまった彼が最後に見た光景——それは、彼を殺す彼自身の姿だった。それまでワタナベ・タダシと呼ばれていた人間は、今は黒田聡の顔をしていた。まるで鋭利な刃物で剥がされたかのように黒田の顔は奪われてしまっていた。男はそっと手のひらを開いた。その下からは、髪の毛も、目も、鼻も、口も、およそ人間の顔を構成する部位の全てが消えた、のっぺらぼうな顔面が現れた。
「ふう。どうですか、ちゃんと剥がせてますか?」
黒田になった男は、自分の顔を指差して尋ねた。スズキは後絞めを解き、顔のない死体をどさりと地面に落とした。そしてチッと舌打ちをしてその場にしゃがみ込み、転がっている死体からてきぱきと服を脱がせ始めた。ものの数分のうちに、死体が身につけていた衣服は下着まで全て脱がせられ、後には全裸の男の体だけが残った。
「さっさと着替えろ」
「あ、はい」
放り投げられた警察官の制服を受け取ると、黒田になった男はそそくさとスーツを脱ぎ、黒田だった男が着ていたシャツと制服を身につけていった。地面に落ちていた帽子を拾って被ると、その男はすっかり警察官・黒田聡に成り代わっていた。
「ふん。上背は少し足りないが……まあ許容範囲だろう。必要になったら靴で嵩上げしておけ。だが……声だけはどうしようもないな。いつもながら、反吐が出る」
「僕に言わないでください。えーと……こいつどんな喋り方してましたっけ?」
「自分で確認しろ」
スズキはワタナベ・タダシのスーツからスマホを取り出して黒田に投げ渡した。
「おっとと……。ああ、そうそう。大体こんな感じでしたよね」
「ふん。プロファイルは仔細に覚えたな? その設定はすぐにでも削除されるぞ」
「はい。もう前の人間のことは忘れちゃいました。今はもう、僕が黒田聡です」
「どうでもいいが、仕事はちゃんとやれよ。俺とお前は一蓮托生なんだ」
「了解です、先輩!」
黒田はビシッと敬礼してみせた。その姿はまるで本物の警察官のようだった。
『えー、駅前交番、畠中から黒田。おい、お前どこに居るんだ? 勝手に出ていったら困るぞ。さっさと戻ってこい、聞こえたら返事しろ。どうぞ』
その時、無線のレシーバーから畠中の声が聞こえてきた。黒田はマイクを胸から外し、手に取って操作方法を確かめた。そしてマイクを口に近づけて返事をした。
「はい、こちら黒田。すみませーん、ちょっと道案内をしてましてー。今終わってー、交番に戻るところでーす。どうぞ」
口調も声色も全く似ていないその返事に、スズキは辟易として手で顔を覆った。
『そうか、分かった。……あー、なんだ。さっきはキツイ言い方して悪かったな。でも、いつまでもヘコんでんじゃないぞ。まだ仕事は残ってるんだからな、さっさと戻ってこい。コーヒー淹れてやるよ、お前、ブラックで平気だよな?』
「はい、はい。大丈夫です、もう気にしてませんから。ありがとうございます」
黒田になった男は無線から聞こえる畠中の声に景気よく返事をした。無論、彼に畠中の言葉の真意など知る由もない。それきり、無線の通信は切れた。スズキの睨めつける視線に気付いた男は、声の調子を整えるようゴホゴホと咳払いをした。
「で、後のことはお任せしていいんですね?」
「ああ、始末は任せろ。それが俺の仕事だからな」
スズキは足元に転がった全裸の死体を一瞥して言った。
「『対象』の捜索は? 僕、しばらく顔出せなくなりますけど」
「おそらく追加の人員はない。YGナンバーは万年人手不足だからな。俺一人で作戦を継続するつもりだ」
「お疲れ様です」
黒田の言葉にスズキはふんと鼻を鳴らした。彼はポケットからタバコの箱を取り出して口に咥え、慣れた手つきでマッチを擦った。ボッという音と共に、赤い炎が闇に灯る。
「しかし、半日探し回って手がかりなしとはな……。その次善の策が、これか」
スズキは軽く息を吸い込み、それからふうと煙を吐いて視線を足元へと向けた。そこにはもうすでに誰でもなくなった、のっぺらぼうの死体が転がっていた。
「上も相当に焦ってるな。二次観測が駄目なら三次、四次でも構わんというのは、いささか雑にすぎる。又聞き程度で狭まる範囲なんて、たかが知れているぞ」
「やはり、あの佐々木とかいう男が本命なんですか?」
「ああ。あの男の他に『対象』と物理的接触をした人物の確定情報は無い」
「だから、あれと親しい黒田聡の顔を使って『対象』の二次情報を引き出せと?」
「ああ。いつも通りにな。だが、あの男……」
——スウッ。スズキは目を細めてタバコを吸い込んだ。じりじりという紙が焼ける音がして、灰色の吸い殻がぽろぽろと地面に落ちた。
「あの男が、何か?」
「——嘘を吐いていた」
「はあ?」
フウッ——。スズキが煙と共に漏らしたその言葉に、黒田はポカンと呟いた。
「それはそうでしょう。見たのに見てないと言い張ってたんですから」
「違う。そうじゃない。それとは違う色を見た。もっと深い……『色』を」
スズキ・ヒトシは人の言葉に『色』を見出す特別な力を持っていた。それは彼が生まれながらに手にした、彼だけの特徴だった。
「あの男……なぜ俺たちの正体を見破ったんだ? 組織の用意した偽装は完璧だった。名刺も肩書も、実在の人物をコピーした代物のはずだ。なのにあいつは、ハナから俺たちが偽物だと決めつけてかかっていた。あれは……そういう色だった」
「さあ。無駄に勘が鋭いとかじゃないんですか?」
「勘だと? 馬鹿な。それこそありえない……」
スズキは交番で対面した佐々木とのやり取りに、拭いきれない違和感を抱いた。任務に入るにあたって、彼らは確定二次観測者である『佐々木敦』の仔細なプロファイルを把握していた。48歳、既婚、高卒。大学生と高校生の兄妹の父親。柔道の有段者で、趣味はゴルフ。警察官になってからの30年間、ずっと所轄署の地域課で交番勤務を続けている、うだつの上がらない男……。
「『銀色の髪に、紅い瞳。とんがり帽子に、黒のローブ』……」
スズキがポツリと口にしたそのフレーズに、黒田はチラッと視線を上げた。
「こんな断片的な『語り』からどこをどう探れというんだ?『誰もがひと目で魔法使いと分かる姿』——だと? 馬鹿が。見た目が特徴的だから、すぐに見つかるだろうと高を括るからこうなったんだ。『対象』が何なのか、あいつら本当に理解しているのか?」
パキッ——。スズキは指に挟んだタバコを折り曲げて悪態を吐いた。
「変装でもしたんでしょうか? それか、誰かにすでに匿われているとか」
「追跡班のエージェントは俺たちだけじゃない。この作戦にはもっと手練れたモニターたちも投入されているんだ。定点観測の結果にも変化なし、目撃情報や噂話もゼロ。こんなこと、誰の目にも付く前に袋にでも詰めて攫わなければ無理だ」
「そんなことをした奴らが居るっていうんですか? 僕たち以外に?」
「ありえん。そんなことしたら余計に目立つはずだ。どんな姿形をしていても一人の人間だ。移動させるにはどうしたって人目につく。ならば考えられるのは……」
スズキはチラッと黒田に視線を向けた。その笑みはすでに、消えていた。
「渡った……ということですか? 結界を越えて、別の誰かの世界に……」
「……可能性の話だ。ゼロよりは多い、な。それに、この男の言っていたことも気になる。まさか、見たこともない少女のことを『あの女の子』とは言わん。お前の問い掛けに対してはシラを切り続けていたのに、その言葉だけは妙に真に迫る色をしていた。恐らく、こいつは見たんだ。俺たちの知らないところで、『対象』の姿を、いつの間に……」
「なおさら変ですよ。『対象』がもうこちらの世界に居ないのだとしたら、この男だって見つけられるはずがない。こいつも佐々木も、どう見たって普通の人間です」
「ああ。少なくとも数時間前に会った時はそうだった。だが、今は……」
スズキは面と向かった黒田の顔を見つめた。耳、鼻、口、顔立ち、そして目。それは生前の黒田聡の顔を寸分違わず複写していた。しかし、それはあくまで物理的、表面的な形でしかなかった。そこに含まれていたはずの何かが、失われていた。
「こいつを殺したのは悪手だったかもしれん。まあ……もう手遅れだがな」
スズキは組織の命令に忠実に任務をこなすことを信条としていた。だが今回に限ってはそれは間違いだったのかもしれない。黒田聡に取り憑いた魔女の残り香を辿れば、『対象』が渡った世界に辿り着けたかもしれない。彼は口惜しく思った。
「一時的とはいえ、こちらの世界から完全に姿をくらますほど強力な隔世だ。『対象』が一人で渡ったとはとても考えられん。どこかに手引をした人間が居たはずだ……」
スズキはスマホを開き、組織との連絡に使っているメッセージアプリを開いた。だが作戦の指令が下って以来、新しい命令書は届いていなかった。彼はその空白の画面を苦虫を噛み潰したような目で見下した。
「……まさか、もう新たな『語り』が観測されたんでしょうか?」
「それを知る由はない。あいつらにとって俺たちなど、使い走りの犬と同じだからな」
スズキはスマホを閉じてコートの中に放り込んだ。下っ端は下っ端らしく大人しく命令通りに従っていればいい。余計な口を挟めば、それは文字通りの命取りになる。彼はそんな極めて現実的な処世術を熟知していた。そうでなければ、彼は『ベテラン』と呼ばれるその年齢まで、組織の中で生き長らえることはなかっただろう。
「いいか、なんとしても『対象』の手がかりを見つけてこい。佐々木敦という結節点がこちら側に生まれた以上、まだどこかに必ずあの魔女の残り香が残っているはずだ。その切れ端を拾い集めるんだ。その先に必ずあの紅目の魔女が居る」
「はい」黒田はさらに緊張を引きしめた表情で頷いた。
「とにかく……今回の件はイレギュラーが多すぎる。上の連中も平静を装ってはいるが、裏でバタついてることくらい俺たちにも分かる。このまま放置すれば何が起こるのかは、他ならぬあいつらの方が一番よく知っているんだからな」
「『特異化』……ですね」
スズキの言葉に、黒田はポツリと一言を呟いた。
「そうだ。もしそうなれば、もう俺たちの出番は無い。組織だ、仕事だと言ってられる状況は今のうちだ。世界そのものが消えちまうんだからな。消えたくなきゃ仕事をしろ、俺は消えたくなどない。俺にはまだやるべきことがある。そうだろ?『シリアルキラー』」
「ええ、もちろんです。『名探偵』」
二人の男はそのようにお互いのことを呼び合った。それは彼らの名前ではなかった。しかしそれは、彼らに組織から与えられた『鈴木均』と『渡辺正』というコードネームよりも遥かに彼らの本質——のようなもの——を表していた。
「……それにしても、本当にあの魔女にそんな力があるんですかね?」
「そんなことをお前が考える必要はない。特異化のトリガーに成りえるなら、犬でも猫でも消すのが上の連中だ。それに万が一、『対象』の渡世を手引したのが……」
——ピピッ。スズキの口からある言葉が吐きかけたその時、彼ら二人の首元でオレンジ色の二重破線がビープ音と共に点滅した。
『——特定禁止用語の使用が検知されました。禁止事由:機密保持=現実保全。HARSネック装着者は直ちに発言を訂正してください。——HARSプログラムY-303のインストールを確認。HARPの打鍼までHARS時間であと60秒です。60、59、58……』
「……チッ」
スズキは赤く点滅を始めた襟元を押さえながら、骨伝導で伝わる無機質な音声に舌打ちした。それは彼らが組織に装着させられた飼い犬を示す『首輪』だった。
「エス・トゥ・エム。YG-007よりHARS本体。文言の訂正を申請。範囲は……」
『受理されました。Y-303の実行を停止。引き続き任務を続行してください』
スズキが呪文のような言葉を唱えると、彼らの首元の光はフッと消えた。スズキは根本まで灰になったタバコの残りを惜しむように吸うと、ペッとその場に吐き出した。
「いいんですか? そんなもの残していって」
「ふん。どうせ元よりどこにも存在しない証拠だ。ここもじきに消えて無くなる」
スズキはタバコを革靴の底で踏みつけて火を消した。
「もう行け、そろそろ帰らないと怪しまれる」
「了解でーす。ではまた後で、情報が手に入ったら連絡しまーす」
「喋り方、直ってないぞ」
「大丈夫でーす。顔さえ合ってれば誰も疑わないんでー」
こんな仕事でも新人は新人か……スズキは歩き去る黒田の背中に侮蔑の視線を向けた。
「さて、片付けるとするか……」
スズキは死体の横に脱ぎ散らかされたワタナベのスーツを拾い上げた。そしてリュックから取り出したクリップ付きのハンガーを誘蛾灯の金具に吊るし、スーツとシャツの一式を掛けた。その不完全な人影が、紫色の明かりを一瞬だけ遮った、その時だった。
「……誰だ!」
スズキは突如、背後に強い視線のようなものを感じた。誰かに見られたか、とスズキは舌打ちしながら振り返った。しかし、そこに居たのは人間ではなかった。
「…………」
そこに居たのは犬だった。灰色の毛並みに、黄色い瞳。黒田が去ったのとは反対側の出口に立っていたのは、そんな特徴的な姿をした1匹のハスキー犬だった。
「何だ、犬か」
スズキはホッと胸を撫で下ろし、死体の腋を抱き抱えた。犬に見られたところで何の問題もない。彼は通りに停めてある車に死体を運ぶべく、ズルズルと引きずって歩いた。
だが奇妙なことに、犬はスズキが近づいてもその場を動こうとはしなかった。吠えたてることも唸り声を上げることもせず、退くことも避けることもしなかった。犬は、その鮮やかな二つの黄色い瞳で、じっと彼のことを見据え続けた。まるで今そこで行われた所業を、その目に焼き付けるかのように。
「……あっちへ行け」
スズキはすれ違いざま、足を蹴ってしっしとその犬を追い払った。犬は澄ました顔でくるりと体を反転させると、そのままどこかに走り去っていった。角を曲がり、その姿が見えなくなる直前、その犬はスズキの方を振り返り、大きな声で吠えた。それはかん高い遠吠えだった。その鳴き声は何かを告発するように、長く遠く響き続けた。スズキはその出来事に、言いようのない居心地の悪さを感じた。
死体を路地から引き出すと、スズキは停めてあったライトバンの荷台に放り込んだ。整然と積まれたアウトドア用の収納ボックスには、彼が仕事で用いる様々な道具が詰め込まれていた。スズキはあらかじめ敷いておいたブルーシートに死体を載せると、そのまま簀巻きにして手足を折りたたみ、ビニール紐で縛り上げた。
「チッ、ポンコツが……」
スズキはキーを鍵穴に差し込み、ガチャガチャと乱暴にひねった。どうしてか、一刻も早くその場を離れたかった。それは彼が生まれて初めて感じた感覚だった。彼はその名前を知らず、名前も彼のことを知らなかった。スズキは気のせいだと言い聞かせるようにアクセルを強く踏んだ。まだ仕事は終わっていない。始まったばかりなのだ。
明かりの消えた薄暗いビル街を、小さなバンが走り抜けていく。見た目には普通の車、運転しているのは普通の男。ぱらぱらとすれ違う人間たちは、誰もそれに目をくれない。その荷台には、たった今殺されたばかりの顔のない死体が載せられている。それには名前があった。それには顔があった。そこには人生が——語られるべき物語があった。
だが、もう全ては失われてしまっていた。可能性は閉ざされ、全ては闇の中に消えていた。それが誰だったかを覚えている者は、もうこの世界には居なかった。そんなものは、最初からこの世界に無かったのだ。
「ふん……くだらん」
スズキは長い信号待ちに苛立ち、また悪態を吐いた。あの一瞬、彼が抱いた不可解な感情——それが罪の意識だということを、彼が気付くことは永遠になかった。